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2004.01.31

04・01・31 ギシギシ堂々

ギシギシかな?アレチギシギシかな?ナガバギシギシかな?
gishigishi9050DSCF0760.JPGnagabagishigishi9050DSCF0762.JPG
ギシギシ 04・01・31 横浜市青葉区 Copycenter 2004 Akira Kamakura

でもスイバではないことは私にも判るようになりました。スイバは「葉身の基部が矢尻形になることに注目すれば、ギシギシその他の似たものから区別できる」という保育社の野草図鑑8の説明に教えられました。以前の私の記事へのカマタさんのコメントに感謝。

ギシギシは交配が進みやすく、だんだん特徴が曖昧になって行くのだそうで、なるほど図鑑の絵とドンピシャリという感じになってくれません。でも、あんまり細かいことにギスギスこだわらない。おおむねギシギシでよしとします。

それよりも、ギシギシは、こうして畑の外れの土手とか、電柱の根元とか、どう見ても世間的に厚遇されているとは言い難い場所にあり、散歩犬の無礼な挨拶も甘受せねばなりません。でもそれをみんな肥しにして、威風堂々と種のプライドを発揮している。なかなか立派じゃありませんか。

どういうわけかカワイイ園芸品種にはあまり目が行かない私の植物趣味なのです。

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2004.01.25

04・01・25 RSSリーダーは"Webテレビ"

ネットのメディアを整理してみると、こんな感じではないでしょうか。
RSSReader.JPG
電子メールは自分と付き合いのある、つまり、リレーションシップのある人とつながるメディアでしょう。何かいきさつがあってメールアドレスを相手に教えたからメールが来るわけです。メッセージは他ならぬ自分宛のものです。

受け取るだけなら全く受動的でラクチンなLife Mediaです。でも、相手から情報を引き出すにはそれなりの努力が必要なWork Mediaにもなります。

Webはメールほどラクチンではなく、こっちが多少とも努力をして相手を探し「あったあった」と発見し閲覧するものです。情報も不特定多数に向けられたものです。検索エンジンとかデータベースも性格が似ています。

さて、新しく登場したRSSリーダーは人間にとって何者なのか?

RSSリーダーで見るのは、購読設定したRSS対応サイトという条件はつきますが、要するにWebです。なのに情報はあたかも電子メールのように届くのでラクチンです。

ここが新しい部分ではないかと感じます。要するにテレビとよく似た特徴をそなえているということです。

CNET Japan梅田望夫さんの記事Tim O'Reillyがいよいよ「真のインターネット時代」あるいは「インターネット3.0」が来ると唱えているとの紹介があります。telnet/ftp時代を1.0、webを2.0としての表現です。

私も上のような整理をしてみて、その通りだと感じています。

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2004.01.21

04・01・21 文藝春秋の新聞休刊日批判

文藝春秋の2月特別号456ページ「新聞エンマ帳」にありましたね、私の指摘と同じ問題意識の記事が。題して「フセイン拘束に休刊日とは!」。

大ニュース発生!!ところが翌日は休刊日。「『ちょっと待ってくれ』と頭を抱えた日本人記者は山ほどいたに違いない。」とこの匿名コラムニストは書いています。

この記事によりますと、昨年は阪神タイガースの優勝決定の翌日も休刊日。そもそも休刊日は「実に年間十日もあった」のですね。いろいろ起きるわけです。

なぜ休刊日があるのか?

新聞業界の「配達員の休日確保」という言い訳は昔にも聞いた記憶があります。が、どんな理屈をつけようとも、それが「購読者指向」でないことだけは確かでしょう。

皆で一斉に同じ日に休んで首謀者不明にしているのも、やましさの裏返しにしか見えません。

休刊日批判をどこかの全国紙の社説で読んでみたいものですね。それこそが言論の自由の最大の存在証明になることでしょう。

えっ?そんなことを基準に評価されるのは情けない?ですよねぇ。

ま、せめて、他山の石とさせていただきましょう。

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2004.01.18

04・01・17 顧客離脱は「環境汚染」

質問1「顧客ロイヤルティの維持は経営にとってなぜ大切なのですか?」

よく耳にする答えはこうです。

「新規顧客の獲得コストは既存顧客の維持コストの5倍であり、顧客維持の方が経済的だから」
私自身もかつてこういう説明をした記憶があります。

では、ちょっと突っ込みを入れてみましょう。

質問2「ではお聞きしますが、もしも新規顧客獲得コストの方が安い場合は顧客維持の施策はあまり重要ではなくなるのでしょうか?」

ちなみにそんな状況って現実にあるのかといえば、あるのです。たとえば、サービスや商品の品質が顧客の期待を下回った場合です。「期待して買ったのに、なんだこのサービスは!」というお客さんをなだめるのは手間もお金もかかることでしょう。とても小手先では無理です。そういうお客さんの相手をしているよりは新規顧客獲得の方が安上がりです。

で、1問目と同じ考え方に立って2問目に答えると

「顧客は新規獲得してどんどん使い捨てにする方が儲かる計算になるので、維持にお金を掛けるのは無駄」
という答えになります、よね?

でもここまでキッパリと割り切ると「でも、なんか変かな」と思うでしょう。そんな焼畑農業のようなことで本当に大丈夫なんだろうか?

もちろん大丈夫ではありません。

そもそもワントゥワンの基本的な理屈では、顧客を維持するかどうかの判断基準は、その顧客の生涯価値だったはずで、新規獲得コストとの比較ではないでしょう。

ということで、質問1に対するあの有名な回答は、じつはワントゥワンの本質から外れているような気がします。ああいう説明で納得を得たとしても、それは聞き手がワントゥワンの本質を理解したわけでもなんでもありません。

そこで私が言いたい質問1への新たな回答はこうです。

離脱客というのは廃棄ガスのようなもの。排出するほどに企業の成長環境が汚染されます。

あなたの身の回りの人々は、ある企業の現在顧客か、かつての顧客か(離脱客か)、それとも無関係の人の三つに分類できます。下のグラフは現在客の出現率を横軸に、また、離脱客の出現率を縦軸にプロットしています。顧客離脱は環境汚染
A社 現在客出現率40%、離脱客出現率10%で、現在客優位。
B社 現在客出現率も離脱客出現率もともに25%と拮抗しています。
C社 現在客出現率が10%、離脱客出現率40%で、離脱客優位です。

3社ともに現在客の出現率と離脱客の出現率とを合計すると50%と一定です。

さて、長いこと離脱客を垂れ流すと、かつてA社の位置にあった会社も、だんだん左上へと漂流し、やがてC社のようなポジションに行き着きます。こうなると石を投げると離脱客に当たってしまうような状況です。

もしも誰かが「こんどC社の商品を買おうかと検討しているんだけど」などと相談でもしようものなら「あんなの止めた方がいいぞ」という人の方が奨める人よりも沢山現れる。こうなると新規顧客が生まれにくくなり企業の成長性が阻害されます。

企業にとって離脱客を出すということは、まさに自分自身の成長に必要な環境を汚染しているということなのです。

だから質問1に改めて回答すると、

「既存顧客ロイヤルティの維持は離脱客を出さない施策であり、それこそが、企業の新規顧客獲得のためにも大切だからです」
と言えると思います。

ちょっと日頃の持論を書いてみました。

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2004.01.17

04・01・17 blogの安全ネット

Danahのblogはまだリカバリできていないようですね。何年間にもわたる書き込みが全部消えてしまったとしたらそのショックは計り知れないものがありますね。どうなんでしょうか。

あるblogが消滅するということは、そことリンクしているblogすべてに影響があるわけです。だから人ごとでは済まされないと思います。

こういうケースを見ると、せっかくのネットワークなんだから、コメントしたりトラックバックしたりする機会に、ついでに、相手のblogの情報を少しずつ取り込んで保管しておく互助組合的な分散バックアップ機能があってもよいと思いませんか。

隣接するblog同士でお互いに相手のblogの自分に関係する部分のバックアップを買って出るのです。コメントならコメントをつけたエントリーを丸ごと取り込む。トラックバックも同じこと。

皆がディスクスペースを少しずつ供出し、いわば保険だと思って、分散バックアップの仕組みを運用するのです。

万が一あるblogが操作ミスで消滅したとしても、原理的には、隣接するblogから情報をかき集めて来てもとの姿を再構築できるはずです。

サーバの管理者の手をほとんど煩わせることなく、再構築のための種となるプロセスを一つ立ち上げるだけで、それが隣接blogにお願いに行って自分のデータをかき集めて、ほぼ自動的に原型を回復できる…とすばらしいのですがね。

コメントもトラックバックもついていない孤立したエントリーについても、それ専門にバックアップする慈善サイトがあればよろしい。

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2004.01.16

04・01・16 Inside and Embedded Perspective

Danah Boydのblogを参照しながら"inside and embedded perspective"という考え方に触れてみようかと思ってアクセスしたら大変なことになっていますね。blogが全部消えてしまって、ただいま復旧作業に奮闘しているようです。こういうこともあるんですね。人ごとではありません。

彼女のことはIHT紙の12月1日の記事で知りました。

人生の早い時期からネットの世界で育ってきたこの世代(25歳)が、今や研究者として、ネットコミュニティの社会学研究に取り組んでいるというだけの記事なんですが、研究者として外から観察するのではなくて、自分自身がネットの中のインサイダーとして、そこにどっぷりと漬かった状態にあるからこそ、新しいネット社会学の研究成果をあげるだろうと注目されているようです。

私自身もlogを論じるためにはbloggerになってみるしかない、ということでやっております。人からいくら説明を聞いてもわからなかった。やっぱり実践あるのみです。

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2004.01.15

04・01・15 「電話セールス」は住環境問題だ!

今日の朝日新聞・家庭面の「電話セールス 被害深刻」と題した記事に、私のところで昨年9月に実施した電話セールスに関する調査結果が紹介されています。知る人ぞ知る格調高いオピニオンblogのOTONA Timesではもっと前に紹介されていましたが。

この調査をやって思ったのは、生活者は電話セールスに対してかなりストレスを感じているということです。

本当はガチャンと電話を叩きつけるように切りたいところです。でも、そうする人は意外に少なくて、穏便にお断りしているのが実情です。

でも、とてもお行儀がよろしいからと言って、それでケッコウとは思っていないのです。

大部分の人はアメリカと同じように電話セールスを断ることができる制度の導入を求めているし、自分でもそこに登録すると回答しています。おそらく、電話を切るたびに「もう本当に、なんとかしてくれよ〜」と心の中で呻いているのでしょうね。

何故、礼儀正しい応対をするのでしょうか?

たぶんトラブルに巻き込まれたくないからでしょう。電話というのは架けて来た人がどんな人か判断する手がかりが少ないので怖いのですね。

こういう失礼な電話は、「あなたは、どこまで踏み込まれたら紳士淑女的マナーをかなぐり捨てて、世間体も忘れて、怒鳴ったりわめいたりするんですかねぇ?エヘヘ」と実にいやらしい悪魔的なテストをされているような気分になるんですよね。で、負けてなるものかとウッと怒りを呑み込んで、礼儀正しく応対してしまう。爆発できない自分が情けないとも思ってしまう。

たった一本の突然の電話でこうした葛藤がおき、これが大変なストレスになります。

「電話セールスが無い横浜市」「局番045に電話セールスすると罰金100万円」なんていう制度が欲しいものですね。間違いなく快適な住環境の一要素だと思います。

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2004.01.12

04・01・12 blogで何がどう変わるのか?

RSSリーダーや近い将来の未知のXMLベースのサービスも含めた、可能性としてのblog文化は(ちょっと言い方がずるいかな)、今みんなが知っているメディアの世界に何か構造的な変化をもたらすのでしょうか?

マスの代表としてのテレビの特徴は、単に沢山の人が観ている=リーチが大きいだけなくて、観ている側が暗黙のうちに「皆が観ているだろう」という期待や仮定をもって観ているということが大きいと思いますね。

「○○○が△△△の番組に出てたの観てなかったの?」と言われてビデオで「あっ、ほんとうだ。出てるよ。」と確認するのはナンデダロウ。

でも良く調べたら視聴率1%なので、せいぜい数十万人しか観ていない。

一方「○○○が△△△のblogに書かれてたぜ」と言われても、「そんなの誰も読みゃぁしないって」で終わってしまう。でも良く調べたらリンクがリンクを呼んで同じく数十万人にメッセージが伝わっていたかも知れません。

この差ですね。

テレビに映ることは社会的出来事であり、その情報を「皆」が観ているかもしれないという前提で話題にされます。

マスメディアというのは、自分がそこから直接得る情報に価値があるというよりは、自分以外の他者がどんな情報に接しているのかを確認できることにもっと大きな価値があるメディアだろうと思います。

「みんなこんな番組を観てるのかぁ」「こんなタレントが人気者なのかぁ」「ありゃ、石原さん、こんなこと言っちゃってスキャンダルになるぞぉ」などなど。

ところが、blogとなると、それを読んだのは自分だけかもしれないと思っているので、個人的な出来事で終わってしまう。

掲載されている情報そのものに価値を認めるか、あるいは、blogを発信している人物と出会ったことを喜ぶか、でしょう。

でもそれだと従来のホームページとあまり変わりません。

blogの意義はそれを閲覧する体験に社会性が入る余地がある点です。「このblogの情報や人物はもっと多くの人が知るべきだ!」という衝動を簡単にトラックバックで表現できることです。

blogは個人運営なのでそういうトラックバック衝動を素直に行動に移すことができます。

MilgramやBarabasiの言うようにこの世界は意外にsmall worldであって、たった6人を介在させるだけで世界中の63億の人々が知り合い関係でつながってしまう、ということになっています。

これはトラックバックのつながりが意外に遠くまで伝播して行く理論的な可能性を示しています。たまたまhub的な人につながることで多くの人々に一気に広がって行くこともあり得ます。

「皆が観ているはずだ」という共同幻想で成り立っているマスメディアはどこの社会にとっても必要なものだと私は思います。

また、blogという形で今みんなが手に入れようとしているのは「この情報は皆が知るべきだ」という個人の個別判断の連鎖で成り立つ、まさにこれぞネットワークメディアと言うべきものでしょう。

で、その挙げ句にどこに至るのか?

これは難しいので暫定的に大雑把なあらすじだけを書いておきますと、マスメディアという権力に対抗するもう一つの権力が生まれる、とは思いません。たぶん、共同幻想が少しずつ希薄化して行くのではないでしょうか。具体的には、現在すでにその兆候は出ていますがマスの細分化でしょうか。で、結果的にマスとネットワークとがほどほどに拮抗する力関係になるのではないかな。

マーケティングもその影響を受て、ワントゥワン・マーケティングが相対的により大きな存在になることは間違いないでしょう。

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2004.01.11

04・01・11 ローマ字と逆ポーランド記法と三上章

「国文学 解釈と鑑賞」平成16年1月号は「三上章と奥田靖雄」の二人を「日本語文法の革新者」として特集しています。たまたま本屋で見つけて思わず購入。これが私のいらないモノを買っちゃう一つの典型。

文法門外漢たる私には、昨年の生誕100年記念三上フェスタのコーディネータだった阿藤進也氏の「論より証拠の私的三上章小伝」に興味深いネタがいくつかあります。

まず、三上の本を専ら出版して来た「くろしお出版」の創業者(現会長)の岡野篤信氏が、日本のローマ字運動の熱心な活動家だったということ。ローマ字運動の是非はともかく、この出版社の言語へのこだわりはなかなかすごいものがありますが、そういう背骨があったのですね。

先日も「日本語文型辞典 」グループジャマシイ (著) を本屋で見て、危うく買いそうになったのですが、これもくろしお出版でした。

もう一つオッと思ったのは三上氏が端切れに記したメモの写真が掲載されていて(130ページ)、それを見ると、

ニッポン記号!?
普通の記法 x=(a+b+c)×(p-q)/y
ポーランド記法 x((((ab+)c+)(pq-)×)y/)=
左から順に日本語の通りに読めばよろしい。…
とあるではありませんか。「そうなんですよ三上さん!」日本語プログラミング言語Mindをやって来た一人としてグイッと引き付けられるものがあります。

1920年代にポーランドの数学者Jan Lukasiewicz(発音はWu-cash-ay-vich)が発明したとされるこの記法に彼は既に日本語を感じていたのですね。三上章が数学教師でもあったこととのつながりが感じられます。

残念ながら日付は不明ですが、メモの他の部分をみると昭和35年の「象は鼻が長い」を出した直後かと思われるところもあります。1961年頃でしょうか。ま、ちょっと違うけど似ているとも言えるKen IversonのAPL=a programming languageが生まれたころですね。

妄想するなら、日本語文法を考える時に彼はスタック操作すらイメージしていたのかもしれません。日本語プログラミング言語Mindを見てもらいたかった。

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04・01・11 ネットサーフィンはオールディーズかな…

RSSリーダーを使ってみてblogワールドの認識がすこし変化しました。blogが本質的に新しいとすれば、このあたりかなという感じです。

RSSリーダーがあると、かなりの数のblogの最新メッセージをいち早く読むことができるのですね。そんなものをいち早く読んでどうするの?!ということは置いておいてくださいね。

「blogの歩き方」あるいはyamaさん流に言えば「blogのまよいかた」は、もはや「ネットサーフィン」ではない。なんだか「サーファー」が"oldies"に見えてくる。

RSSリーダーがどんなものか、それは何処かで誰かが書いているはずなのでここでは省略。何でもかんでも自分で書かないのがblog的だと私は思います。

RSSリーダーでどんなことができるか?

たとえば、メーリング・リストに近いグループコミュニケーションが考えられます。

いちばん簡単なやり方は参加者各自が自分のblogを持つだけ。あとは各自がRSSリーダーにメンバー全員のblogを登録するだけでよい。

いや、全員じゃないかも知れません。この人はと思うメンバーだけでも構いません。

お互いのメッセージの絡み合いはトラックバックでやります。

そうするにはトラックバックの操作がもう少し簡単かつ直感的になって欲しいですね。また、トラックバックを送信した相手のメッセージへのリンクは何処かに自動的に表示して欲しいと思っています。ココログの場合、今は編集画面でのトラックバック送信履歴として見られるのみ。

このやり方がMLと根本的に違う点があるとすれば、お互いにblogで発信する全メッセージが何でもかんでも飛び交ってしまうことでしょう。テーマを限定できない。それで構わないというのは、本当に親しく全人格的に交流している仲間でしょう。

もっとも、blogのサービスがもっと進化して、blog内の「カテゴリー毎のRSS」を提供してくれればかなり改善されます。

もうひとつの違いは、グループに閉じたMLとは違って、blogでやると本質的には公開になってしまうといことでしょう。でも、自然に仲間が増えてゆくことを歓迎するのであれば、むしろこの方が優れているともいえます。

参加人数が多くなった場合は、グループの各人が発信するRSSをいったん集約してくれるサービスサイトが必要になりますね。ちょうど今のココログ新着記事一覧の機能を特定グループ向けに提供してくれればよいことになります。メンバーはそのサイトのRSS一本を購読すれば済みます。

などと、RSSリーダーを使い始めてから、だんだん妄想がふくらんできました。

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04・01・11 アレチギシギシの紅葉だった

このあいだ名前不詳のまま公開した草紅葉の正体はどうやらスイバの仲間であるアレチギシギシのようです。

雑草を調べるならこの本だという「校庭の雑草」(岩瀬徹ほか 全国農村教育協会)が手元から紛失してしまっていて、やむなく図書館で見つけて、ようやく調べることができました。今は新版が出ています。

この本はさすがです。雑草の越冬の姿であるロゼットの写真を掲載しているので、パラパラめくるとすぐにそれらしき「アレチギシギシ」が見つかりました。葉がちょっとシナッとした感じが決め手だと感じました。

確認のためgoogleしてみると、岡山理科大学の植物雑学事典がみつかり、スイバとなってはいますがヤッパリ!という写真です。

日本帰化植物図鑑で確認すると、アレチギシギシは学名Rumex conglomeratusで、欧亜大陸原産(よく考えるとずいぶんとまあ広々とした地域特定です)。「明治38年(1905年)に武田久吉が横浜から報告し和名を与えた。今も関東地方に多く…」とあり、いわば横浜が本場であると感じられます。ちなみに武田久吉とはアーネス・トサトウの息子であったことは今や知る人ぞ知る?ですかね。

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2004.01.10

04・01・10 資本主義リテラシーかな

榊原節子さんのホームページにこんなことが書いてあります。

「自分の会社以上によい投資はない」と言われる企業家にお会いする。そうかもしれない。でも3年、5年後はどうであろうか。昨今は特に時代の動きが激しい。個人資産を自分の会社一社に集中させることは投資上、リスク分散上問題である。絶対に会社を大きくさせる、潰さないという強い思い、気迫を維持しつつ、尚且つ冷徹にリスクヘッジをしたい。自社株は売れないのなら、株その他の資産を担保にして借り入れを起こしてでも投資の分散化を図るのがオーソドックスであろう。欧米の何世代も続いた資産家は、創業時の株や安いとき仕入れた株を売却せずに、それを担保に他の株を買ったり、相場が下がると思えば売り持ちにしたりして資産の分散をはかり、或いはリターンの向上を心がける。…全文はこちら


資本主義の教養が日本人にはまだまだ足りないと榊原さんは仰っています。

その根っこには日本の学校教育でビジネスとかお金というものを避けていることがあるでしょう。最近はビジネスゲームや株式投資ゲームを取り入れる学校も出てきたとは思いますが。

私の場合、富士通という会社に入って、たまたま経営意思決定サポートシステム"MDS=Management Decision Support System"の研究開発チームに配属されたのがラッキーでした。そこで財務諸表分析や財務シミュレーションモデルというものに触れて、学生時代には手を触れようともしなかった経営学や会計学の面白さを教えてもらったものです。

ただ、財務諸表が読めるからといって「…(売却できない自社株を)担保に他の株を買ったり…」という柔軟な発想がでてくるわけではないことは言うまでもありません。

資本主義リテラシーとでもいうべきものがあるような気がします。

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2004.01.09

04・01・09 音と言葉、楽器と声

さっき、NHKテレビで森進一の歌を聴いていました。

いつごろだったのか記憶はもうハッキリしませんがとにかく1970年代のいつかでしょう、当時芸大教授だった畑中良輔氏が朝日新聞の音楽時評で森進一の歌唱を取り上げていたことが忘れられません。

全身全霊を傾けた森進一の熱唱にそんじょそこらのクラシックの歌手はとうていかなわない、というようなことが書いてあったと思います。歌唱法というより歌への打ち込み方です。

私の高校時代の音楽の教科書には氏の「口笛ふけば」というアマチュアっぽくて微笑ましい歌曲の作品が掲載されていたこともあって畑中さんには親しみを覚えていたものですが、この時評を読んで、この先生は音楽の見かけにとらわれず本質に耳を傾けることができる人なんだと思ったものでした。

クラシックとポピュラーは、いったい、何が違うのか?なかなか説明が難しいものがあります。

森進一の歌を聴きながら考えていたら、こんな説明はどうだろうと思いました。

「言葉」が感極まってメロディーを奏でた結果できた音楽=歌はポピュラーに分類されるものが多いこと。

この手の作品から言葉を取り去って器楽曲として演奏してみるとわかるのですが、音楽的にもぬけのからになっています。楽器を演奏する側の表現意思を受け止めるほどのシッカリした構造がそこに存在しない。その音たちがどうにも表現の器としてスカスカなのですね。でも、にもかかわらず、その音にひとたび歌詞を添えると実に心に響く音楽になるのです。

これに対してクラシックと呼ばれる音楽は、話が逆転していて、「音」が感極まってあと少しのところで「言葉」を喋りそうに感じられるもの、ということができます。

歌曲は別として、実際は「言葉」はありません。だけど聴けば音楽に「言葉」を聞いたような錯覚を覚えるし、楽器を演奏する人は何か言いたいことを言ったぞっという気分になる。言葉にならない言葉を喋ることに確かなカタルシスを覚えるわけです。

言葉にメロディーを与える人間の「声」と、言葉になりたがっている音に形を与える「楽器」とを比べると、機能性や多彩さの点で楽器の勝ち〜ということが多いのはやむを得ないところがあります。

「声」を楽器のように使うのはかつてのSwingle Singersや近年ではBobby McFerrinがあり、本当に凄いなぁ!!と思いますが、それでも楽器には負けてますね。

私は昨年、清水有紀さんのバイオリンが奏でるJ.S.BachのPartita#2のシャコンヌを間近に聴いた時に、あとちょっとで音が言葉に転化しそうというゾクゾク感を体験したものです。

来たる2004年1月28日水曜日に紀尾井ホールでその清水有紀さんのバイオリンコンサートがあります。

2004年1月28(水)19:00
The Art of Violin Playing
Yuki Shimizu piano Kazuoki Fujii
清水有紀(Vn),藤井一興(Pf)
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・J.S.Bach: Violin Sonata in b minor BWV1014
・Prokofiev: Solo Sonata in D major O.115
・Ysaye: Solo Sonata No.4 in e minor Op.27-4
・Toru Takemitsu: Distance de Fee (武満徹 妖精の距離)
・Debussy: Violin Sonata in g minor
・Paganini: La Campanella
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有紀さんのプロフィール

幼少時を米国ボストンで過ごし、メンデルスゾーン協奏曲でデビュー。

日本では神奈川音楽コンクール、全日本学生音楽コンクールに優勝し、神奈川フィルハーモニー管弦楽団や東京交響楽団とたびたび共演する。

近年では、ゲルハルト・ボッセ指揮新日本フィルハーモニー交響楽団とモーツァルトの協奏曲を、神奈川フィルハーモニー管弦楽団とシベリウスの協奏曲を、名古屋フィルハーモニー交響楽団とチャイコフスキーの協奏曲等を共演している。

また、海外ではニューヨーク・ストリングアンサブルのメンバーとしてカーネギーホールにおけるクリスマス・ニューイヤーコンサートで活躍するほか、欧米各国でコンサートに出演し、その奏法の確かさ、美しい音色で定評。

安田財団ファンデーション、ロームミュージック・ファンデーション受賞。文化庁芸術家在外研究員に選出される。

15歳で、桐朋学園大学ソリストディプロマを、16歳でカーティス音楽院オーディションに合格しフルスカラーシップを得る。マンハッタン音楽院に移り、研鑚を続けている。

これまでに、江藤俊哉、徳永二男、原田幸一郎、堀正文、J.ラレード、F.ガリミア、P.コーペック、P.ズッカーマンの各氏等に師事。


有紀さんのお母様から聞いた話ですが、かつて彼女が初めてPinchas Zuckermanの前で演奏した時、"How do you know my sound!" との言葉が先生の口からもれたそうです。

有紀さんのために、私は10枚チケットを引き受けましたが、あと2枚だけ残っています。ぜひ聴きたいという方、ご連絡ください。4000円です。

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04・01・09 RSSリーダーに届いた記事

RSS readerをインストールしていろんなblogの最新の情報を効率よく読むことが出来るのにいたく感心しているところです。

で、そのおかげで、たった今(02:00 AM Jan. 07, 2004 PT)Wiredのサイトに掲載されたばかりの記事"The Macintosh's Twisted Truth"が目に飛び込んできました。

WiredはMac誕生20年を記念して昔の開発秘話を掘り起こしているようで、その一つとして、Macの本当の創始者はJef Raskinだということに触れています。(このことは私のリンクリスト"Respect From Six-Degree Distance"の中にもコメントしてあります)

私がこのことを知ったのは随分昔のことでIEEE Spectrum誌の"Design case history"という短期連載の一つとしてでした。Googleしてみるとその記事がちゃんと見つかりました。1984年12月号のDesign case history: Apple's Macintoshです。

Mac発表はいつだったかな?とRegis McKennaの"Relationship Marketing"=邦題「ザ・マーケティング」を久しぶりに開いてみると1984年1月24日とあります。それだけではなく、この本にもJef Raskinが元祖だと書いてありましたね。

元祖とか創始者とか言っても、所詮は同じ組織の中の話ですから、Steve JobsとJefのちょっとこじれた関係はよくある話の一つという感じもあります。ま、その議論は別途ということで。

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2004.01.07

04・01・07 接ぎ木と実生の哲学

甘い実がなる果樹の枝を台木に接ぎ木をすると?当然ながら甘い実がなります。その枝の貴重な「才能」を保存するためにこそ接ぎ木をするわけですからね。

私が偏愛するZinfandel種のブドウの木には100歳の老木もあるようですが、ラベルにはold vine old cloneなどと書いてありまして、古い台木に接ぎ木をしたのだろうと想像されます。

ここまでの話なら私も聞き流すわけですが、先日、どこかで読んだか聞いたかした話はこうでした…。

「ところが甘い実の種を蒔いて育てても、も必ずしも甘い実がなるわけではないのですね」!!

うむ?なんだか品種改良された甘い果物をスーパーで買ってきて、そのタネを蒔いて育てれば、もとの果物と同じぐらいオイシイ実が収穫できるかのような期待をもっていたのは、全くの素人の幻想だったのか…。

でも考えてみれば当たり前の話。

接ぎ木は「いい形質だけをコピーして残そう」という人間の浅知恵。よくない形質はいらないという発想です。やがて商業的に有利な単一品種だけを育てる浅墓な農業ができて、かつての19世紀のアイルランドのように、特定種のジャガイモの疫病による大飢饉の被害に遭うことになります。良い悪いなんて判断は人間の勝手だということを思い知らされます。

ところがタネを蒔く実生(みしょう)の思想は「将来、どんな形質が必要になるかわからないから、色々な可能性を試しましょ」ってことで甘い実のタネには意外な可能性が潜んでいて、ある意味人間をガッカリさせる、「親の顔がみたい」と。

接ぎ木と実生の違いはなかなか哲学的に深いのですね。

社会や組織の進歩は、一つには多様性=diversityの重要性を理解し、それを積極的に育てることだろうと、植物は教えてくれます。

まあ、それにしても、インターネットの世界では、つぎからつぎへと色々なタネが芽を出してくるものですね。

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2004.01.06

04・01・05 ディケンズの著作権戦争

「イギリスの作家ディケンズ(1812-1870)は自分の本の海賊版がアメリカで大量に出回って著作権料が入らないことに業を煮やし、アメリカへの講演旅行に出かけ、バカ高い講演料をふっかけて回収したのだった」という話をどこかで聴いて、著作権料というものをチマチマキッチリと回収しなくても、こういう手もあるなと感心したものでした。

しかし、ちょっと調べた限りでは真相はよくわからなくて、この解説を見ても、そもそも1842年1月の彼の「最初のアメリカ訪問では、国際著作権問題のことがクローズアップされ、ディケンズはアメリカでの海賊版を訴える目的でアメリカへ行ったという誤解まで生じている」ということになっております。

ディケンズの考え方は違ったかも知れませんが、まずは無料コピーを認めることで広く作家の名声を確立し「ブランド価値」を高めた上で、その後で、大きなブランド価値からいかようにも収穫をすればよいではないか、という作戦は現実にあると思います。

そもそも、一般にはブランドを確立するキャンペーンにかなりのお金を払うのが普通でしょうから、多少の身銭を切ってでも作品を広くばら撒いてファンを増やすことの何が損だというのでしょうかね。

スケールが小さな例で恐縮ですが、ワントゥワン・マーケティングのコンサルタントのブライアン・ウルフ(Brian Woolf)さんは一作目の「個客識別マーケティング」(原題"Customer Specific Marketing")を出す時に、出版社に行って「この本は私の名刺みたいなものなのでタダにしたい。本業のコンサルで稼ぐからそれでいいのだ」と言ったら「ダメッ」と即座に却下されたという話しをしていました。いずこもなかなかこういう考え方は現実には通用しません。

それはわかっているのですが…ねっ。

最後にちょっとだけ宣伝しておきますと、"Customer Specific Marketing"を「個客識別マーケティング」と訳したのは私です。よろしくお願いいたします。
【参考】過去の著作権関係のentry
03・12・30 BOOK-OFFで考えたこと
03・12・16 誰がために印税は成る?

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2004.01.04

04・01・04 blogはノビルか?

この世の中に「雑草」という草はなくて、ちゃんと名前があるのだ、というのは、色々な意味で言われることです。

植物に名前があるのは当たり前だけど、その社会的価値が多くの人に認められているかどうか、それが「雑草」と「野菜」「果物」などとの違いでしょう。人間だと一人一人に名前があるのは分かっているけど、やはり、「有名人」と「一般人」を区別するでしょう。
ノビルノビル
Allium macrostemon
03・12・27 横浜市青葉区
Copycenter 2003 Akira Kamakura


たとえばこの写真は「ノビル」です。我が家の近所のいたるところにモジャモジャと雑草のように生えています。食べるとオイシイのですが、まず採っている人を見たことがありません。

ノビルや土筆どころか、このごろは少年少女諸君も、道端のおいしそうな木の実ですら食べたりしないようです。うちの隣の小学二年生のユイちゃんにしても、境界に植えたグミの実を食べてくれません。オジサンにしたって、先日、ゴルフ場で「おんこの実」をもいで食べていたら「それ食べられるんですか?」とキャディーに言われてしまいました。

しかし、そういう人々も、「雑草」が「野菜」然としてスーパーの棚に陳列されると手を伸ばすわけですよね。「食べて大丈夫だろうか?」というためらいが自動的に消滅するのです。

blogはノビルか?と書いたのは、blogは「伸びるか?」ではなくて「野蒜」に似ているんじゃないかな、という意味だったのです。

道端に生えていようとスーパーの棚に並んでいようと、植物としてのノビルはノビルです。でも、棚に並ぶということはマーチャンダイザーの選別を経たことを意味しています。(念のために補足しておきますと、ノビルをスーパーで見たことはありませんよ)

私たちの社会には新聞・雑誌・テレビ・ラジオなどのマスメディアがあって、どの情報が大事でニュース価値があるかを決めて報道しています。いわば原っぱからノビルを採ってきて、それを棚に陳列するかどうかを判断しているようなものでしょう。

そういうイメージで言いますと、blogは、今のところあちこちにおいしそうなノビルの株がモジャモジャと育っている状態だなと感じます。

タラノメやウドなどの山菜にもたとえられます。それぞれの株にわずかばかりの固定客がいて、春になると確実に採りにくるんですよね。その人たちは山菜の目利きであったり、友人から「これは食べるとオイシイよ」と教えられたりした人でしょう。

blogがbloggerの間で注目されて、やがてマスコミという巨大なhubに取り上げられて「野菜」や「果物」に変質するという展開は当然あるでしょう。それはそれで決して悪いことではないと私は思います。

ただ、それだと「果物」や「野菜」の新商品開発でしかないところが物足りない。

ネットワーク社会というからには、ノビルをノビルとして食することにならないと面白くないですね。でも、そこがもっとも難しい点だろうと予想します。

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2004.01.03

04・01・03 「信条倫理」 だったとは!

大昔、マックス・ウェーバーの「職業としての政治」で「心情倫理」と「責任倫理」という概念に触れましたが、なんだか誤解していたみたいです。

先日ブックオフで100円で買った一冊は森嶋通夫「政治家の条件」という岩波新書#199。
そのはしがきに

政治を論じるとき、私は、マックス・ウェーバーの名講演「職業としての政治」軸にして分析すべきだと思いますが、不幸にしてこの講演のキー・ワーズの訳語が適切でなかったために、ウェーバーの考えは日本では徹底しておりません。本書の第三章では、私が適当と思う訳を与えておきましたので、…
とあったので、どういうことだろうと購入したというわけです。

一般的な理解では、
「心情倫理」は、物事を行なうにあたって意図が正しいかどうかが大事だという考え方です。結果がまずくても「良かれと思ってやったんだから仕方ないじゃないか」と許す。

「責任倫理」の方は、如何に善意に基づく行為であっても、結果がまずければダメだ、責任を取れ、という考え方です。

森嶋先生は「心情倫理」という訳が問題だといいます。もともとのドイツ語はGesinnungsethikで、ethikは倫理ですが、Gesinnungは「心情」もあるが「確信、信念」という強い思いをも意味するというのですね。

ウェーバーがこの講演でGesinnungspolitikerという時は明らかに「信念の政治家」を意味しているので、Gesinnungsethikも「いかなる状況にあっても信念をつらぬくことを善しとする倫理」が妥当な解釈だというのですね。だから、あえて旧訳の音を尊重するなら「信条倫理」だと言います。

たとえば、政党が、国民に理解されにくい政策を掲げ、国家100年の計との信念から選挙で愚直に潔癖にその理解を訴えたとしても、普通は負けます。これが「信条倫理」の政治家です。

これに対して「責任倫理」の政治家は、国民が受け入れやすい政策を表に立てて、まず、政権を取ることが先決という作戦に出ます。政権をとらなければ信念の実現はできないのですから。

よく言われる、国民受けは良いが実は国家財政を傷める"soft heart"の政策と、不人気だけど実は口に苦い痛みをともなう良薬である"hard head"の政策との対比に通じるところがあります。

信条や信念がなければ政治家になる意味がない。しかし、その「信条倫理」で突撃して自滅するようではだめで、実現のために「責任倫理」も取り入れて行動する「バランス感覚」が政治家には重要だということです。

昔のウェットでセンチメンタルな「心情倫理」というニュアンスからはこういう議論は出てきませんよね。「心情」を「信条」に置き換えて「信条倫理」の政治家と言っただけで全くイメージが変わってしまいます。
Gewurztraminer and Late picked Riesling二つのワイン
04・01・02 渋谷区松濤
Copycenter 2004 Akira Kamakura

ライチの香りのGewurztraminer種のアルザスワインと、ニュージーランドはPegasus Bayの遅摘みリースリング。なぜかこれは度数が8.5%しかないのが不思議。山葵と刺し身にはこういう甘めの白があうと考えて新年会に持参し、ほとんどを自分で飲んでしまいました。

考えてみると、日本では、野党が「信条倫理」いや「心情倫理」でしか動いていないことを国民はちゃんと見ていて、一度も野党に単独政権を与えませんでした。昨年の総選挙ではじめて、民主党が「信条」と「責任」のバランスをとれる野党かもしれないと認知されたばかりでしょう。

近年の自民党政治は、「信条」は霞ヶ関からの借り物で、あとは、密室での派閥間の妥協と談合の中で派閥と政権維持の「責任倫理」だけで動いているように見えたものです。これに対して、小泉首相がいろいろあっても高い支持率をキープしているのは、彼が自民党には珍しい「信条倫理」を唱える政治家だからではないでしょうかね。

また、総理大臣にしたい人というアンケートで石原都知事がトップになれない一つの理由は、日頃の言動から彼が「信条倫理」偏重で「責任倫理」をやや軽視するきらいがあることを国民が危惧してのことでしょう。

経営者にも「信条倫理」と「責任倫理」のバランスは求められるだろうと感じます。

たった100円の本でいい勉強をさせてもらいました。本の値段と内容の価値はまったく関係ありませんでした。

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2004.01.02

04・01・02 blog歴四週間で容量ピンチ!

昨年12月6日の土曜日に始めて以来、私のblog暦は今日でちょうど4週間になります。
コントロールパネルのアカウント情報の概要を見ると
16.648 メガバイト (55.49%)
もうこんなに容量を使っています。

記事数: 38 | コメント数: 23 | ライター数: 1
ということで、438KB/記事と計算されます。かなりでかい。

たんに写真が多いというだけでなく、最初のうちはデータ量が大きい写真をそのままアップロードしていたこともあり、こういう数字になっています。

最近は写真のデータ量を落とす工夫をしていますが、それでも、テキストに比べると巨大というべきですね。

しかしボヤーッとした解像度の写真では見たものの迫力が伝わらないので、どうしても一枚につき100KB前後は使ってしまいます。

30MBの壁にぶち当たった場合にニフティさんはどんな条件を提示するおつもりなのか、早く知りたいですね。使用済み容量のアンケートをやっているblogがあります。

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2004.01.01

04・01・01 経営者とは何者か?

「会社はこれからどうなるのか」岩井克人著 平凡社 2003-2-23 初版1刷 1600円を昨年読みました。

経営者とは何者か?という問いに対するもっとも納得が行く説明がこの本にあります。

「株式会社の経営者とは会社の信任受託者である」ということなのですが、これだけだと理解されないだろうというので、岩井さんは色々と補足をしています。

まず、「信任」という言葉です。英語のfiduciary(フィジューシアリィ)。「日本では日常的にほとんど耳にしない言葉です」とあります。

この意味を深く納得させてくれたのは、以下の医者と患者の関係の本質の説明です。ちょっと引用します。

例えば、無意識の状態で運ばれてきた患者を手術する医者を考えてみましょう。この患者は自分で医者と契約をむすべません。だがそれにもかかわらず、救急病棟につめている医者は、まさに医者であることによって、患者のために手術を行ないます。ここでは医者は、患者の生命をまさに信頼によって任されています。すなわち患者の信任を受けた信任受託者です。

岩井さんは「会社の経営者もその法人にたいして信任の関係にある」と言うのですが、その理由として驚くべきことを言います。

「法人とは、救急病棟に運ばれた無意識の患者と同じように、…(途中省略)…事実上は契約をむすぶ能力をまったくもっていません。」

法人が意識不明ならば、確かに、経営者は医者みたいなものでしょう。形式的にはわかりやすい。だけど、そもそも法人が無意識だなんて、そんなバカなと思いませんか?

でも岩井さんに言わせると、法人というのは、モノのくせにヒトとしての振る舞いを社会的に求められている存在なので、意識不明だと言わざるを得ないというのです。これは私の理解したことですけどね。

この考え方でよいのかどうか、以下に吟味を進めてゆきます。
YarraYering Dry Red No.2, 1996
YarraYering Dry Red No.2, 1996
03・12・31 横浜市都筑区
Copycenter 2003 Akira Kamakura

大晦日にあけた秘蔵6年のShirazブレンド。ツーンという熟成香はありましたが酸味が強くこの先まだ熟成が期待できたのかも知れません。でも後の祭。残るはNo.3のみ。


株主というヒトは「株」というモノを所有しています。でも、株主(ヒト)は会社の資産(モノ)を所有しているわけではない。その証拠に、富士通の株主だからといって倉庫からパソコンを持ち出せば窃盗罪に問われるでしょう(似た例が本の中にも書かれています)。その場合被害者は富士通という「法人」です。あくまでも資産(モノ)を所有しているのは会社という「法人」だからです。これを「二重の所有関係」と呼び株式会社の基本構造だといっています。

盗難の被害届けを出すだけでなく、会社は業務をするのに外部といろいろな契約を結ぶことになりますが、その契約主体は会社です。株主ではありません。というか、現実問題、毎日の会社業務のいちいちを株主全員が判断し署名していたのでは仕事にならない。そこで株主は会社という「法人」に経営を任せるのです。

ここですよポイントは。株主は所有という意味では会社をモノと見なしているくせに、経営となると、会社をヒトであるかのように「頼んだよ」と任せるわけです。

でもモノに意識や判断力があるわけではない。間違いなくモノは意識不明です。だから誰か本当の意識を持つヒトが、会社の「意識」を受け持って、会社という「モノ」を「ヒト」であるかのようにこの社会の中で振る舞わせなければならないことになるわけです。

ということは、会社は意識不明のまま存在することは許されないということが判ります。魂を入れた方が良さそうだからそうしているのではなくて、とにかく誰かの魂を会社に入れないといけないのです。選択の余地はありません。

その魂を受け持つのが代表取締役なのですが、その際の株主との関係は委任契約ではないのだよ、と岩井さんは言います。

実際問題、委任契約ということなら、一人一人の株主はバラバラで互いに矛盾した注文をつけるだろうし、契約の数だけでも履行不能になるでしょう。

しかし理由はもっと本質的なところにあります。つまり経営者は株主の代理人ではないということです。経営者は会社という法人の魂を引き受けているのです。誰に頼まれているか?と敢えて言うなら、意識不明の会社から「たのむよ、もう大変なんだよ。株主がうるさいの。株価上げろ利益をだせって。でもワタシ、意識がないのでどうしようもないの。お願いしますよ」と、頼まれているのです。

だから、株主と委託契約を取り交わす立場にはない、ということです。そんなことをすると意識不明の会社は「おい、やめろっ。オレのカラダを勝手に切り刻んでどうするってんだ。あの株主はオレの将来のことなんか何も考えていないんだから。株主を大事にしないとあんたの首があぶないってのはわかるけど、あんたは経営者なんだから最後はオレのことを考えてくれよ」ということもあり得るのでしょうね。

経営者は、日々、良かれと思うことを会社というモノに施して行きます。その結果会社の資産は良くも悪くも変化します。それを反映して株価も変化し、株主から見たモノとしての会社も変化します。

ということで「株式会社の経営者は、株主の委任を受けた代理人ではなく、会社の信任を受けている信任受託者です」という説明になるわけですね。

従って経営者は、契約に基づいて経営しているわけではなく、忠実義務や注意義務という信任義務が求められており、要するに「倫理」に縛られている存在なのですね。

コーポレート・ガバナンスは私の友人の専門分野ですが、この岩井さんのような認識とアメリカ流のガバナンス理論との関係はどうなるのでしょうかね。

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