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2006.04.05

06・04・05 「猫に九生あり」="A cat has nine lives."

そもそもは猫を高いところからほっぽり投げて、これじゃもう助からないだろうと思っていると、どっこい「ニャオ」と何事もなかったかのごとく戻って来るしぶとさを言っているらしい。

もちろん我が家の猫をそんな恐ろしい目にあわせたりはしないが、最近、この諺を実感させられている。まだ事態は進行形なのだが。

うちの雌猫は約18歳である。その割りにはいつまでも元気だと思っていたが、数ヶ月前のこと、急に後ろ足の運びがぎこちなくなった。足を引きずるようにしている。はてさて、いよいよ脳梗塞でも発症したのかと注意していると、それからほどなくして急に元気が萎えて、とうとう部屋の隅に力なく横たわるようになった。

DSCF6208もう疲れ果てたという様子で横になり、腹がふくらんだりへこんだりすることだけが、かろうじてまだ息をしている証拠という感じだった。それもしばらくジッと凝視しないと呼吸が確認できないほどにまでなった。

それまでになると水も飲まないしエサも食べないから、病気はともかく、絶食が原因で本当にくたばってしまうだろう。助かるものも助からなくなる。

そこで、せめて水を飲ませてみるかと思い、スプーンの水をぐったり寝ている猫の口元に近づけて見た。何度かやるうちに舌がペロペロと動きだして水を啜るようにはなった。しかし、あまり長くは続かない。

やはり駄目か。きっと脳のあちこちに脳梗塞が起きて、基本的な反射機構が壊れ始めているのだろう。

考えてみる、カリカリと乾いた味気ない猫エサばかりしかやらなかった。このまま旅立たせるのは気の毒だ。最後ぐらいウマイものを食べさせてやりたいと思った。

台所を漁ると、人間様用のシーチキンの缶詰があった。そう、猫が元気だったころは、この臭いを嗅ぎつけると食卓に飛び乗って来たものだった。これを最後の晩餐にしてやるかと、白っぽいかけらを小皿に取り分けて、猫の臨終の枕元に駆けつけた。それが正直な気持ちだった。

シーチキンのかけらを口元に近づけると猫はピクリと反応した。舌がペロペロと舐める動きをして私の掌から少し食べた。だんだん食欲が戻って来ている。そこで小皿にまとまった量をのせると、これも食べた。

その翌日だったか翌々日だったか、二階の部屋で猫はヨロヨロと立ち上がった。やがて、階段を何かがドタドタと転げ落ちる音がした。猫は一階の廊下をフラフラと歩いていた。

さらに数日後、猫は、足どりこそぎこちなく頼りなくなったものの、一階と二階を階段で行き来し、夜はベッドに飛び乗って来るまでになった。で、飼い主は猫に頬ずりをして健康の回復を喜んだ。

と、ここまでが猫の九生分の二生である。

その後、猫のエサはカリカリに戻った。が、何週間かたってまた寝込んだ。主はまたシーチキンを食わせた。猫はまた蘇えった。

これで九生分の三生。

DSCF6205やがてまた寝込んだ。今度はちょっと様子が違って口に水を近づけても反応がない。これは駄目だ、いよいよだと思った。

これだけ弱っていると最後の晩餐はシーチキンというわけにも行かない。で、ふと、牛乳を飲ませることを思いついた。やってみるとこれは飲んだ。

そして猫は蘇えり九生分の四生に入った。

今のところ、足腰がふらついてはいるものの、すっかり元気である。階段も自力で昇り降りする。ただ、風貌が老猫風に変化してきたことは否めない。
【追記】

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2006.04.02

06・04・01 あざみ野の春

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あざみ野のウンナンオウバイ 2006・04・01 横浜市青葉区 Copycenter 2006 Akira Kamakura

今年は花が遅かったあざみ野駅近くのウンナンオウバイも今はちゃんと花盛りになっていた。並んで咲いているレンギョウも遅いような気がする。おかげで桜の満開と一緒になり、北国の春のような豪華な眺めとなった。

…ということを、今、ベートーベンのスプリング・ソナタを聞き流しながら書いている。

植物たちは毎年その時期をあやまたず花を咲かせる。地軸が傾く地球が太陽の回りを粛々と回転するという揺るがない事実にともなう必然的で末梢的な現象の一つでしかない。

人間の過剰な文明活動によって地球温暖化とか異常気象など「地球環境」の破壊が起きていると言うが、壊れているのは「人類の生存環境」である。地球の視点から言えば人類の自滅を促進するプロセスが進行しているだけ、ということだろう。

人類が絶滅してもウンナンオウバイか、その変種は、咲き続けるだろう。彼らは人類がいなくても十分にやって行ける。生物の多様性の中で種の共生関係があるわけだけど、そのネットワークの中で人類は必要な存在なのかどうか?よく分からないところがある。生態系全体から見たら、人類はもっとも狡賢いParasiteか、ひょっとすると自らの生存意義を正当化して憚ることのない自己陶酔型のPredatorかも知れない。

今朝、テレビで小沢一郎氏が自らの政策の基本理念を「共生」だと言った。誰も反対できない美しい概念である。したがって政治的には何も言っていないに等しい。国際社会はもちろん、国内社会でも、対立が無くなることはあり得ないと誰もが承知している。だからこそ、政治というのは社会の対立軸を鮮明にすることがもっとも重要な役割だと思う。陶酔性のある「共生」を政治のコトバとして使われてしまうと、かえって裏で何を考えているのだろうかと胡散臭さを嗅いでしまうのだ。

DSCF6291ベートーベンのこの「春」は作曲者30歳1800年頃の作品である。今日まで200年以上聞き継がれて来た音楽である。

正直なところ、若い頃はこうした「わかりやすい」音楽は単純すぎて面白くないと思ったこともあった。しかし歳を取ってみると、いつまでも瑞々しさを失わない音楽がますます偉大なものに見えて来る。一見して低い峰に思われた山が、近づけば近づくほどに意外な高峰であることに気づくような感じである。

たかが「雑草」ひとつとっても、生態系の中では人類以上に重要な役割を果していることもあるに違いない。

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