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2006.08.29

06・08・29 チェリモイヤ?いや、マグノリア?

セヴィージャと気取らずに素直にセビリアと書くが、そこのアルカサルの中に入った途端にチェリモイヤ、または、カスタード・アップルの濃厚な南国果実の香りが襲って来た。いや、確かにここは南国だ。直射日光は殺人的に強いし気温も高い。

DSCF7972昔、オーストラリアの海辺の町、マンリーだったかの果物屋で熟しきったカスタード・アップルを一つ買って、蜜のような果汁で手をベトベトにしながら食べた記憶がある。瞬時にその匂いと名前がよみがえったのだった。

あの時、果実は見たが、どんな木に成るものなのかは知らないままだ。

匂いに集中しつつあたりをキョロキョロすると、どうもこの写真の木があやしい。

DSCF7987しかしこの実は似ていると言えば似ているが、ちょっと違う。これは泰山木じゃないか?とも思う。同じ庭には巨木もあり、ますます泰山木くさい。でも、匂いはこの木のあたりに濃く漂っている気がする。

首を傾げたままグラナダへと移動した。

DSCF8056アルハンブラ宮殿の敷地内にあるパラドールの塀の中に一歩足を踏み入れた瞬間、ここにも濃厚な匂いが漂っていた。庭の中を動き回って芳香の来る方向を探った。やはりそこには同じ木があった。手の届く高さの実を引き寄せて鼻を近づけたが、なぜかあまり強くは匂わない。しかも実は意外に硬くて、これが崩れそうに柔らかいチェリモイヤになるだろうか?と疑問に思わざるをえなかった。

結局、全てが判然としないまま帰国した。

調べると、アンダルシアにチェリモイヤがあることは確からしい。だが樹木は最高でも8m程度にしかならないらしい。だとするとあの巨木は当てはまらない。

アンチョビの小骨が喉に引っ掛かったままというか、アルハンブラ宮殿からの出口を見失った謎が堂々巡りしているというか、この部分に限りスペイン・ツアーはまだ終わっていないのだった。

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2006.08.28

06・08・28 Jose Ramirez(ホセ・ラミレス) SPモデル

マドリッドのマヨール広場の近くにあるホセ・ラミレスの店でギターを買って来た。

DSCF8910鍵のかかったガラスケースの中にSPモデルが2本展示してあった。表面板の材質が白っぽいスプルースと赤みがかったシーダーと二種類。どう違うのかと尋ねると、シーダーの方がよりロマンティンクで、スプルースはより強い音がでるという。別の店で試奏したスプルースのギターは乾いて弾けるような音質の印象があったので、ためらうことなくシーダーの試奏を希望した。

SPとはセミ・プロのことだという。プロが使っているいわゆるラミレスとは違うし、量産品のステューデント・モデルとも異なる。しかしハンドメイドである。音楽を趣味とするだけの私がプロモデルを買うのは楽器に対しても職人に対しても失礼になる。正直なところ、セミ・プロフェッショナルという名前にもちょっとこそばゆい感じがあるのだけど、年の功も加算して自己承認した。

DSCF8875一週間のスペイン旅行代金のほぼ一人分に匹敵する値段だったが、試し弾きをしてみてほとんど迷いは無かった。

学生時代からの憧れの楽器だった。当時は自分が使っていた楽器の約30倍の値段で、まさに高嶺の花だった。ただし、ラミレスと言ったって色々あるということを知らなかったし、そもそも、触ったこともないこの楽器の楽器としての魅力を語る資格もなかったと思う。

実際に弾いてみて思うのは、音のスケールが大きい感じがするのだ。真面目に音楽に取り組んでごまかしのない演奏をしなさいよ、と背中を押された感じがすること。これが一番重要な点だ。

スペインのギターは弾きにくいという迷信のような話が頭に入っていたが、それは幸い感じなかった。ネックも肉厚ではない。

DSCF8855DSCF8851というわけなのだが、帰国してまずやったのは、胴体の中の写真を撮ること。マーチンとどう違うのかを確認したかった。丁寧に作られていることが一目瞭然だった。

余談。ラミレスのショップでトイレを借りるためにカウンターの中から裏手へと案内された。そこには博物館入りしそうなヴィンテージ物が並んでいた。ラミレスのブレーシングは私の上の写真で見るかぎりトーレスのパターンだが、そのトーレスの古い物があった。その他もいろいろ。写真撮影のために貸し出しされているものもあるとのこと。

はてさて、私は「またいらないモノ買っちゃった」のかどうか。ひとえに練習する時間がとれるかどうかに掛かっている。

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2006.08.04

06・07・29 村治奏一のギターは端正で品がある

NHK教育TVのトップランナーをHDレコーダに録画設定しておいたら、今年の始め頃だったかに、偶然入っていたのが村治奏一だった。村治佳織の弟であることはもちろん、子供の頃からコンクールに入賞していたことは何となく知っていたが、この番組で観て、演奏を聴いてみたいと思っていた。

そして、7月29日に自宅近くの青葉台フィリアホールで生演奏を聴くことができた。

とにかく感心した。オジサンができのいい育ちのよい若者に目を細めるということもあるのだが、それだけでもない。

第一に音楽が鳴っているということだ。当たり前のようでなかなかないこと。彼が奏でる音楽が生き物として命を得ると、じつに自然な舞を舞い始める。まともな音楽家に共通していることだが、音が当人の語る言葉になっているということなのだ。だからそこには一つの安定した人格の自然な意識の流れを感じることができる。取ってつけたような芝居染みたところとか、他人ごとのような身につかない台詞は聞こえない。

先日、富士山麓、十里木カントリーでゴルフをした。前がつかえてコース上で待つことも幾度か。その時、周囲の林からセミの集団の声が鳴っていることにふと気づく。日暮らしのような鳴き声のセミだった。

ひまに任せて耳を傾けると、集団の中には必ず音頭取りがいて、その声がその他大勢の付和雷同の合唱を引き出していることは明らかだった。

ゆったりとした波が押し寄せては引き返すような合唱を聴いていると、いつも音頭取りの声は同じ方向から聞こえて来るようで、恐らく同じ個体だろうと推測した。

どうやら何らかの表現意思をもったセミがいて、その他大勢の反応を感じながら合唱をリードしているらしいのだ。

それだけではない。別の林からも同じような合唱が聞こえていたが、どうも集団は集団同士で互いの声を聴きあっているらしく、互いの合唱がかぶってバッティングすることがない。まるでイーサーネットの衝突検出のようなCSMA/CDのロジックが何処かで働いているのだ。

コース上でこうしてセミたちの声に聞き入っていたわけだが、その声が鑑賞に堪えるのは、それはセミの命が奏でる真実の音であって芝居ではないからだ。いくら深く聞き入って意味を探ろうとも、その行為が裏切られるわけはない。

村治奏一くんの演奏とセミの声、そういう共通点を感じた。彼の演奏はいくらでも深く聞き入ることができる。

第二に、その音楽に品がある。これはさらに得難い資質だと思う。私たちの世代でクラシック・ギターをやった人はだいたいセゴビア節の影響を受けたものだが、二十歳そこそこの村治奏一の演奏にその臭みは全くない。しかし無味乾燥にもならない。なんだかこのことに痛く感動してしまった。

こうなると気になるのはギター音楽のある種の浅薄さだ。作品は小品が多く、大きな構想の作品が少ない。いわば俳句や和歌のような作品が多いのだな。果して彼はいつまでギタリストでいられるだろうか…。

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