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2006.12.16

06・12・16 スポーツ報道とイジメ「元素」

いつものようにiPodでKQEDのマイケル・クラズニーのpodcastingを聞いていたら、最近ある本を出した著者が登場して"Hikiko Mori"について話し始めた。「森 ヒキ子」?どんな字を書くのかと思ったら「ヒキコモリ」の話だった。どうやら"hikikomori"もかつての"otaku"のように英語の語彙に入りそうな気配を感じた。

イジメ問題の「元素」というべき何かがあるとすると、それは日本人「みんな」の精神にかなり広く蔓延していて、ある時はイジメという形をとり、またある時は醇風美俗として現れるという性格のものではないか、という気がする。

例えば、こういう現象がある。日経新聞や朝日新聞のプロ・スポーツ報道で私がしばしば気になっていることだ。

ゴルフトーナメント初日、無名の選手がトップに立ち、一方、優勝候補とされる有名プロ○○が出遅れたとする。この場合、見出しは「○○、首位に△打差スタート」と来る。記事の本文ももっぱら有名プロのレポートばかり。どこを探しても首位の無名プロにインタビューした話とか、その選手の経歴などの情報がない。

確かにカリスマ性のある有名選手は、たとえ成績が振るわなくてもファンにとっては一挙手一投足が興味の対象ではある。だから読者が読みたい記事を提供するとこうなる、ということかも知れない。

しかし根はもっと深いと睨んでいる。

どうも「我々」日本人は財界やら政界やらスポーツ界などの日本の「~界」を見る時に、特定のボスをトップに戴く主流派とその他という分かりやすい安定的な構造に整理したいのではないか。

裏返して言うと、ボスが存在しない多極的で流動的な構造を常態として受けいれたくない。

だからいったん構造が決まった後は、どんな場合でも「~界」のボス、親分、主、権威、大御所、重鎮、天皇の動向や意向がもっとも重要なのだ。ボス以外の身に何が起きようと関心がない。

ここにイジメ問題の「元素」の一つがあると直観する。

言うまでもないが、プロになって初めて有名選手を押さえて試合でトップに立ったとしたら、当人は、大々的に報じられるべき大ニュースだと思うだろう。なのにそれを報じてくれない状況を「イジメ」と感じるのではないだろうか。

「客観報道」を標榜する新聞も、こうして無意識のうちにイジメ元素の温存に手を貸しているような気がするな。

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