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2008.05.11

08・05・10 ボージョレとは思えないMORGON

2000年のMORGON。このワインの正体を私は知識として持ち合わせない。何となくそろそろ開けないといけないかなという直感だけで開けた。デカンタージュしてみるとけっこうオリがあった。

DSCF2666ブルゴーニュだということはボトルの形でわかるわけだが、Hugh Johnsonを調べるとボージョレとある。なんだ、ボージョレかよ、となるところだが、解説には★が三つもついており、けっこうな褒め言葉が並んでいるではないか。

飲んでみると、とてもヌーボーでおなじみの同じガメイ種とは思えない。2000年はちょっと遅かったかも知れないが、決してへたってはいない。あと2-3年早く飲んでいればもっと驚いたかも知れない。初めてボージョレを見直した。

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08・05・09 東京フィル+椎名豊トリオでラプソディー・イン・ブルー

5月9日の金曜日、東京フィルのサントリー定期、じつは、格別の期待もなく出かけたのだが、終わってみたら、予想外の贅沢なもてなしを受けた気分でホールを後にした。

演目は、アメリカの現代音楽が一つ、ガーシュインのラプソディー・イン・ブルー、そしてベートーベンの7番だったが、ガーシュインで一気に今夜は特別だぞというモードに突入した。

そもそも予兆は1曲目にあった。ステーヴン・マッケイ(Steven Mackey)という人のターン・ザ・キー(Turn the Key)という日本初演の作品。

という作曲家の名前も作品名も覚えていないので、いま、あらためてプログラムをひっくり返して書き写しているだけだが、これが、

「曲の冒頭は、打楽器奏者が自由なテンポで手を叩き、ホールの後ろからステージへ向かって歩くようにという指定がある。やや遅れて2人目の打楽器奏者が4分音符=92のテンポで登場。2人のセションとなり、やがて聴衆もこれに参加。そして指揮者がようやく小太鼓へスタートの合図を送って、オーケストラが目を覚ますのだ。」
というもの。

開演前にこの説明を読んで、現代音楽にありがちな作者の独りよがりに付き合わされるうんざり感を想像した。ところが、この演出がけっこういい。一般的に現代的作品とは敵対しがちな保守的聴衆の心理をアッという間につかんでステージの上に連れて行ってしまう。鳴り出した音楽も音色のカクテルがけっこう口当たりがよくて楽しめる。格式にとらわれないアメリカ的なサービス精神に富んでいる。

10分間の演奏はヒュー・ウルフ(Hugh Wolff)という初耳のアメリカ人指揮者=シェフが母国から取り寄せた気の利いたオードブルとなった。この店、けっこう良さそうだ、という空気になったところで10分間の休憩。

2曲目の開演にむけてステージが作られる。中央には見慣れたピアノが1台。いつもと違うのはその横に、ジャズのライブハウスから切り取って来たように、ドラムズのセットとウッド・ベースが置かれたことだ。不思議なもので、もうこれだけで自由な空気がステージに流れている。やがて三々五々座り始めるオケの奏者たちも、すでに心がスイングしているように見えてしまう。

ラプソディー・イン・ブルーの主役はジャズの椎名豊トリオだった。

冒頭、まずピアノソロから入るので、ありゃ?と驚かされる。聞き慣れたクラリネットのグリッサンドはその後で始まった。これがまたアッと驚くJazz感あふれる節回し。

まるでオケがジャズ的に発情して、おれたちも仲間に入れてくれぃニャンニャンと椎名トリオに向けて発したラブコールに聞こえた。フツーはこの関係が逆で、ジャズからクラシックへのおずおずとしたラブコールに聞こえるものだ。YouTubeにあるバースタインの演奏でさえもそうだ。ガーシュインのクラシック作品が時に痛々しく聞こえてしまうのはここに原因がある。東京フィルではそれが逆転したのだから驚いた。

それもむべなるかな。初めて聴いた椎名豊という人のピアノは音の隅々にまで表現の意思が込められており、従ってそこに自ずと一つの人格が立ち現れる、まぎれもない一流の音楽だった。

そのピアニストがこの際はJazz側に居て、要所要所にトリオの即興的と思われるセションを挿入しつつ進行するのだから、もうこのラプソディー・インブルーはピアノトリオ・コンチェルトとでもいうべき形式だった。ジャズが主役としてのびのびと自分の音楽を語りつつオケとも対話を重ねて行く、まことに、これこそがラプソディー・イン・ブルーのあるべき姿かと、図らずも感動が込み上げて来た。

演奏後の拍手がすごかった。ふだんとは明らかに鳴りが違う。ちゃんと伝わるのである。

この形式を企画し椎名トリオを指名したのが指揮者だとすると、ヒュー・ウルフという人はただものではない。ということで、ベートーベンの交響曲第7番ではもっぱら指揮者への好奇心がそそられることになる。

ヒュー・ウルフはちゃんと音楽を指揮していた。そんなの当たり前じゃんと言われるかも知れないが、個々のフレーズを指揮するが音楽を指揮せず、という印象を与える指揮者がいかに多いことか。これは振り始めるとすぐにわかってしまう。

印象的だったのは、第3楽章のトリオの部分のテンポだ。もったいをつけたベートーベン節にせずに比較的あっさりと軽快に足早に通り過ぎて行った。勘違いかもしれないがそう思った。最初はまさにもったいない感じもしたが、第4楽章で激しく人心を鼓舞する仕事が待っているのだから、そんなところでノンビリたるんでいるヒマはないぞ、というメッセージだったような気がする。

その効果なのか、最終楽章Allegro con brioでオケはもうすっかりベートーベンと一体化し激しく波うち燃焼した。この楽章は、精神的運動不足の人間をつかまえて、精神のラジオ体操をしつこく迫る押しつけがましさがあるが、たまに聴く分には気分爽快だ。

改めてカルロス・クライバーのCDを聴いて記憶と比較してみたが、そもそも第2楽章で十分にしんみりして来ているので、流れとしてはヒュー・ウルフの方がスムースであり、全体構成が納得しやすい。やっぱりこのアメリカ人指揮者は凄いぞと思った。

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2008.05.06

08・05・06 サザエの壺焼きのコツ

サザエの壺焼きは、螺旋状の身のクルクル巻いた先端の先端まで、完全に抜き取るのがなかなかむずかしい。無神経に引っこ抜いたら簡単にちぎれてしまう。殻の中に取り残された先端部分はまず回収不能となることを覚悟しなければならない。

家庭の食卓でのことなら、やったことはないが、トンカチで殻を割ることも考えられる。が、料理屋となると、金を払っているにもかかわらず、先端部分の回収命令を出すのは極めて困難である。失敗の直接的な原因は自分の不器用さか軽率さだろうし、言えばケチだと思われるだけだろう。回収できる数センチの身と失う名誉を計りにかけると、仲居さんが下げようとする一見空の壺に「待った!」の声を掛けたくても声帯はマヒしてしまう。

もっとも今では大抵の料理屋は切り刻んだ身を壺に戻して持って来るのでこの悩みは発生しないのだが、それもなんだかつまらないものである。

サザエの壺焼は、食べるだけでなく、身を完全な形で取り出すことも楽しみのうちなのだ。

身を殻と共通の軸に対して正確に回転させつつ、焦らずユックリと引き出す。わかってはいるのだが、私自身、何度も失敗した経験がある。

そもそも先端の方は、ヘタ近くの筋肉質の身とは違って、噛んでも歯ごたえのない崩れやすい性質である。それがあの精密な螺旋空洞の中にピッタリと収まっているわけだから、すこしでも殻に焦げ付いたりしたらもう引き出せない。千切れるのは調理する側にも責任の一旦があるのだ。

DSCF2626この連休中、ゴルフの帰りに寄ったスーパーで新鮮なサザエを見つけた瞬間、以前、ある鮨屋で教わった壺焼きのコツを思い出して、実際に試してみたくなった。

サザエを焼く前に、まず湯につけて軽く茹でるというのだ。壺焼きならぬ壺茹で。聞いただけでナールホドと思うワザである。

茹でた後にヘタの隙間から醤油や出汁を補給して殻を直火にかけるわけだが、これはもはや調理をしているというよりは、仕上げの味付けをしているだけなので、煮立ったらもう火からおろしてよい。煮詰めてしまっては茹でる手間をかけた意味がない。

やってみたのがこの証拠写真だ。

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