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2009.05.31

09・05・31 或る日突然ベン・ホーガン

ゴルフとは極めてメンタルなゲームである。私はゴルフ歴38年である。別に今初めて気がついたわけではない。そんな話は何度も聞いた。しかし、何度も聞き流して忘れた。

ゴルフとは、大多数のアマチュアにとっては、週末の時間をやりすごす遊びのひとつにすぎない。しかし、プロは生活も名誉もそれが全てだ。

今日も大洗ゴルフクラブで行われた試合で、プロ17年目にして初優勝を遂げたプロが涙を流す映像があった。偶然の勝利だったら泣く理由がない。泣いたということは、その背景に長年の精神的・肉体的苦闘の日々があり、宿願成就の瞬間だったからだろう。

アマが仲間のコンペで優勝して泣くことはないだろう。アマはゴルフという行為をそこまで深く重く受けとめない。それがアマということでもある。

だから、なのだろうが、アマは、ゴルフについてプロが語る言葉をしっかりと受けとめていないような気がする。

今年は絶不調が続いていた。8回やって一度も90を切れていない。約4週間前、91を出しているが、翌日は98。どうにも90は当分切れそうにない客観情勢であった。スコアが悪いだけでなく、ショットの感じも全くつかめていない。例年シーズン始めは調子が出ないのだが、今年こそ!?このままズルズルとダメスコアが続くのではないか?そんな不安を抱えていた。

ところが昨日の30日、今年9回目のゴルフは、一の宮カントリークラブの西コース、いちおう6300ヤードで、IN-40とOUT-41の81が出た。たぶんこの2-3年のベスト・スコアである。

ダメダメの不安状況と81までの間に何があったか?

少なくとも肉体的には思い当たる変化は何もない。鍛えたというよりは、むしろ筋肉はだらけていた。唯一具体的な変化は、古いベン・ホーガンのレッスン書を拾い読みしたことだ。

"Five Lessons The Modern Fundamentals of Golf"は初版が1957年で、私が持っているのは1976年のreprint版。わずか127ページの薄いチープなペーパーバックは$1.95。ちょっと待てよ。これがあの水谷準訳の立派なハードカバーの「モダン・ゴルフ」の原書かい?こっちも持っているので本棚から引っ張りだして確認すると、サイズもふたまわりほど大きい当時定価1500円のこの本は、内容はまちがいなく同じだった。1958年初版で私の持っているのは1975年3月31日の第2版第8刷だった。

先週、紙が茶色く酸化しかけたベン・ホーガンの原書を30年振りに開いてみた。全くの気まぐれである。自分でもなぜなのかはわからないが、数多のレッスン書やゴルフ雑誌のページを捲る時とは心構えが違っていた。

その違いを説明するのはなかなか難しいのだが、この本は、単に売れるレッスン書を作ったのとは何かちがう。ベン・ホーガンという人物をゴルフの神がこの世に遣わした預言者だと見立てて、彼の口から語られた言葉を書きとめておこうと企画された書物、つまりゴルフの聖書のようなオーラがあるのだ。

どの世界にも預言者的人物がいたとしてもおかしくはないが、宗教以外となると、まさか彼や彼女が「神」の遣いだとは考えない。まして、プロ・ゴルファーである。早い話が大規模な賭けゴルフで生活をしている人々だ。その人の口から発せられた言葉を、発せられたまま最大限の敬意を払い受けとめて、心の中で咀嚼し反芻し、やがてそれを自身の心の中に宿し、自我との区別がつかなくなるまでに受けいれることがあるだろうか?

結論を急ぐと、ベン・ホーガンは、汝右手で打つなかれ、と言っていたのだ。本質は左右の手の力のバランスであるが、それを達成するために、右手のグリップは右の指で握ることを強調していた。インパクトの瞬間はプロといえども意識できない。それを右手でコントロールしようなどと考えてはいけない。不可能である。指で握ることによりクラブヘッドは身体全体の動きに呼応して自由に走るようになる。そうしておいてあとは正しい身体の動きを達成すればよい、というのだ。

このところ私は右手を使うことを考えることが多くなっていたのだが、それを絶対にダメだと言われたわけだ。

昨日、私が心掛けたのはこの一点だけ。右手は指でグリップし掌で握らないように注意する。ワッグルしてヘッドが自由に走る状態にあることを確認してからバックスイングに入る。ドライバーからショートアイアンまで、みんな同じ。たったこれだけで、あれほどワイルドだったショットが正気を取り戻し、一気に最近のベストスコアが出たのである。

ベン・ホーガンは誰でも70台を出せるとも言っている。ここはひとつベン・ホーガン教に帰依してみようと思っている。

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2009.05.06

09・05・06 「グラン・トリノ」は1972年Ford Gran Torinoだった

クリント・イーストウッドの「グラン・トリノ」を観た。実にン?年ぶりの映画館である。アカデミー賞を取りそこなったこの作品が心の隅にひっかかっていた。ゴールデン・ウィークの自由時間に、ふとその気になった。

いまだに私にとって彼はローハイドのローディであって、監督として意識するのは初めてかも知れない、と思ったが「マディソン郡の橋」も彼の作品だったことを思い出した。あれもいい映画だったが、今回の作品にはもっと感動した、というより驚いた。

西部劇でカッコつけてたニーチャンが、といっても年齢的にはボクの叔父さんぐらいなのだが、久しぶりに会ったらどっぷりと純文学映画をやっていた。大きなテーマを映画らしい映画に表現する意欲と技量を見せつけられて、まるで昔の日本映画に再会した思いだった。みんな知っていたんだろうが、映画をあまり観ない私には大いなる発見となった。比較する必要はないが、つい愚痴のように言いたくなる。同じ晩年でも黒澤作品とは大違いだ、と。

題名の「グラン・トリノ」は1972年Ford Gran Torinoというアメ車のことだった。クリント・イーストウッドが演じる主人公のウォルト・コワルスキーは朝鮮戦争で13人は殺したという退役軍人である。帰還して、フォードの工場で働いていた。

その後アメリカの自動車産業は日本車に敗退して今にも潰れそうだ。ウォルトの馬鹿息子だってトヨタのセールスマンをやっている有り様だ。冗談じゃないと彼は思っている。

老いたウォルトは、アメリカ中西部のさびれ行く町で、毎日することもなくポーチに座ってPabst Blue Ribbonのビールを飲んでいる。

このミルウォーキーの香り高いビールは私の好みだったが、ブルー・リボンの名のとおり、ブルーカラー、すなわち工場労働者のビールだった。

隣人たちがいつのまにか東洋系ばかりになってしまった町から、彼が愛し誇りに思って来た「アメリカ」が融けて流れて消えて行くばかり。白人の若者も不甲斐ないやつばかりだ。

ウォルトは、いつも軒先に星条旗を掲げ、毎日、狭い前庭の芝刈りを怠らない。三十数年前、自分が工場の組み立てラインで部品を取り付けた「グラン・トリノ」を今も新車と見紛うばかりに手入れしている。その車はアメリカの栄光の象徴であると同時に、彼の人生の誇りそのものである。それを守ろうとひとりぼっちのささやかな抵抗を続けている。

しかし彼は老いて行くばかり。肺を病んでおり時々咳き込んで吐血する。アメリカが老いて病んでいるのだ。

ちなみに、クリント・イーストウッドは82年に制作した"Honkytonk Man"(たまたま「すご録」に入っていたので昨日観たが、これもいい作品だ)の中でも血を吐いているが、吐血に関するオブセションがあるのだろうか。

隣人の東洋人たちは嘆かわしいほどアメリカの価値を無視し壊して行く。それどころか彼らの価値観を辟易するほど押しつけて来る。

ある日、その隣家の東洋娘が白昼路上で黒人ギャングに取り囲まれているところを、通り掛かったウォルトが助ける。それが切っ掛けで、隣家との付き合いが親密に変化して行く。ウォルトは、それまで人種偏見の対象でしかなかった彼らが、自身の息子たちよりもよほど道徳的な人間であることに気付くようになる。

しかし隣家の親戚にはギャング集団がおり、東洋娘の内気な弟を脅して手引きをさせてウォルトの「グラン・トリノ」を盗もうとする。

いつのまにか東洋人隣家と親戚同様の付き合いをするようになっていたウォルトは、ギャング集団と一家の腐れ縁をなんとか断ち切ってやろうという意欲を燃やすようになる。そして、敵のアジトに踏み込みきついお仕置きを見舞う。

ところがそれが逆効果となり、一家はギャングたちからの過激な反撃に遇っただけでなく、東洋娘が暴行を受けるという事件に発展する。

責任を感じたウォルトはギャングを殲滅する計画を練る。ここにいたって内気な弟も命懸けの復讐を誓う。いよいよ彼がギャングたちを銃撃で退治する結末を期待するところだが、意外にも、ウォルトは丸腰でギャングたちの前に進み出て、彼等の無数の銃撃を全身に受けて死んでしまう。しかし、ギャングたちは警察の手で逮捕され東洋人一家の前から姿を消すことになり、計算通りに、ウォルトの目論見は実現する。

死後、ウォルトの遺言が発見され、「グラン・トリノ」は、実の息子たちではなく、東洋人隣家の内気な弟に与えられることになる。

ウォルトとの付き合いの中でようやくアメリカ社会を生きるに相応しい逞しさを身につけた若い東洋人が「グラン・トリノ」、すなわち「アメリカ合衆国」でありウォルトの魂でもある象徴を運転してミシガン湖畔を走るシーンで映画は終わるのである。

アメリカの現代を生き終えようとしている誰もが抱くであろう落日の思いがある。また、アメリカの未来に関する暗喩もある。これではいかん、という思いと、これでいいのかも知れないという思いとがアンビバレントに響き合い協和とも不協和とも言えないモダンな和声を紡ぎだしている。

サブプライムローンで金持ちは大儲けをしつつ大損をし、貧乏人は夢を見つつ夢破れ、アメリカの国力の象徴たる自動車産業をとうとう乗り捨てて、アメリカという国は黒人大統領のもと新しい国家に生まれ変わろうとしている。我々がこの現代を何十年か先に思い出すのに、この映画はきっと一つの道標になっているに違いない。

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