2010.01.03

10・01・03 消費しない消費者をなんと呼ぶ?

デフレという現象について若い頃は全く考えたことがなかった。しかし悲しいかな、今、日本では誰もがデフレのエキスパートになりつつある。

売り手と買い手が消費というゲームをしていると考えると、デフレとは、買い手が「金を使う」という手をなかか打たない状態。そこでしびれを切らした売り手が「経営努力」により値を下げる。ところが買い手は、もっと待てばもっと下がるだろうと考えて、買い急がない。かくして膠着状況が続き、売り手の更なる「経営努力」で値段だけがどんどん下がって行く状態だろう。

「経営努力」というヤツが曲者で、社員の給料を減らしたり、メーカーだと、国内社員をクビにして海外のもっと安い労働力を使う。この結果、一消費者としての社員の所得は減るので、ますます買わなくなる。

といって「経営努力」をしないでいると輸入品に市場を奪われてしまい、やはりいずれは社員にツケが回って来る。

買わない理由なら、今、幾らでも挙げられるだろう。

①当面、景気が悪くて所得が増えそうにない。サラリーマンでも、今後、定期的に昇給して行く期待もかなり薄い。だから、ローンで将来の所得増を先取りするような買い方はできない。

②投資と思って買ってあった不動産などの価値が下がって大きな含み損を抱えており、悔しくて、とても新たな消費意欲がわかない。

③物価は上がらないのだから、必要なモノは本当に必要になった時に買えばよい。今慌てて買う必要はない。

④日本の社会のセーフティネットが破れているのではないかと心配だから、なるべく将来の自分の生活は自分で守るために消費より蓄財する。まして国家財政が事実上すでに破綻しているのだから。

⑤エコだエコだと言われて、節約することが正しいという価値観が根付いてしまった。実際、温暖化は気になるし、限りある化石燃料に依存する暮らし方に将来はないだろう。

⑥なんだかんだ言っても、もう欲しいモノがあまりない。ネットでクチコミ情報が入るので、価格や必要性について冷静な損得判断をする消費者になった。

⑦高級ブランド物は、世界的にオーラを失ってしまったので、あまり欲しいとも思わなくなった。

⑧もともと日本には清貧という生き方を良しとする価値観もある。そこまで達観しなくても、20年前のバブル期の経済は狂気だったという思いがあり、あの愚行を繰り返したいとは思わない。今日、確かに消費者自らがデフレを助長している自覚はあるのだが、以前より、消費者として「正気」になっているとも感じている。

消費者がこういう有り様だとすると、これからの消費者は、形容矛盾だが、あまり消費しない消費者だということになる。

人々が上に列挙した①~⑧までのスタンスを維持しつつ「消費経済」が活発になることが、どうにもイメージできない。いや、仮に活性化出来たとしても、それを「消費経済」と呼んでよいものだろうか。

「消費者」という言葉は、本来は経済活動のサイクルの中での役割を示す言葉にすぎない筈だが、20世紀後半の大量生産された規格品を大量消費する役割を担わされた大衆という色が着いていると感じる。

マーケターは、大量消費の大衆が多品種少量生産された製品を求める少衆へと変化する時代の消費の本質的なwhyを追究するために「生活者」という概念を編み出した(と私は理解している)。

これからの消費しない消費者や消費しない消費経済を考え論じる上で、「生活者」は器として十分かも知れないが、その生い立ちはまだまだ消費寄りであって、ひょっとしたら他にもっとピッタリと言える概念があるような気がしてならない。

トフラーが持ち出した「プロシューマ」(prosumer)も一つの器かも知れないが、これもちょっと違う。

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2009.08.23

09・08・23 選挙カーの声が無い「振り逃げ解散」総選挙

我が家の近辺では、昨日も今日も、選挙カーの声が全く聞こえない。聞こえるのはミンミンゼミとカラスだけ。こんなに静かな選挙がこれまであっただろうかと考えるほど。候補者たちは人出の多い場所を選んで活動しているのだろうか?住宅街には「最後のお願い」の段階でやって来るのだろうか?

もっとも、いまさら来られてもむだで、こっちはもう期日前投票をすませてしまった。

この半年余り、首相は支持率をみて解散のタイミングを計って来たのだろう。好球必打を自らに言い聞かせるバッターのように。

首相就任直後の10月には解散予定記事らしきものが文藝春秋に掲載されたが、あそこで一回目の解散空振りがあったのではないか。

その後、漢字が読めない問題が表面化して状況は悪くなる一方だったが、小沢代表の秘書逮捕という絶好球が来た。しかし、国策捜査という八百長疑惑を恐れてか解散しなかった。これが二回目の見送り。

民主党は電光石火の代表交代劇でこの窮地をしのぎ、勢いを取り戻した。だが、鳩山新代表の「故人献金問題」が暴露され、首相にしたら久しぶりの甘い球となったが、またもや見逃し。

いつまでたっても支持率が解散を勇気づけるほどまでには回復しなかったために、好球も見逃し続けて、野球ならこれで三振バッター・アウトだ。

ところが麻生首相はそのあとに衆議院を解散して一塁ベースに向かって走り出した。三振振り逃げである。

今回の選挙は、最後の詰めで、民主党が一塁に正確な送球をやり遂げることができるかどうか、それとも麻生首相が奇跡的に一塁ベースに先に駆け込むかという戦いになった。

今朝の政治討論番組に出演した麻生太郎氏の表情をみるかぎり、あまりdesperateな感じを受けなかった。彼なりのダンディズムなのか、それとも、もう間に合いっこないと思っているのか。

「ホップ・ステップ・肉離れ」の民主党に何かが起きるのか起きないのか、選挙戦最後の一週間が注目だ。

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2009.05.06

09・05・06 「グラン・トリノ」は1972年Ford Gran Torinoだった

クリント・イーストウッドの「グラン・トリノ」を観た。実にン?年ぶりの映画館である。アカデミー賞を取りそこなったこの作品が心の隅にひっかかっていた。ゴールデン・ウィークの自由時間に、ふとその気になった。

いまだに私にとって彼はローハイドのローディであって、監督として意識するのは初めてかも知れない、と思ったが「マディソン郡の橋」も彼の作品だったことを思い出した。あれもいい映画だったが、今回の作品にはもっと感動した、というより驚いた。

西部劇でカッコつけてたニーチャンが、といっても年齢的にはボクの叔父さんぐらいなのだが、久しぶりに会ったらどっぷりと純文学映画をやっていた。大きなテーマを映画らしい映画に表現する意欲と技量を見せつけられて、まるで昔の日本映画に再会した思いだった。みんな知っていたんだろうが、映画をあまり観ない私には大いなる発見となった。比較する必要はないが、つい愚痴のように言いたくなる。同じ晩年でも黒澤作品とは大違いだ、と。

題名の「グラン・トリノ」は1972年Ford Gran Torinoというアメ車のことだった。クリント・イーストウッドが演じる主人公のウォルト・コワルスキーは朝鮮戦争で13人は殺したという退役軍人である。帰還して、フォードの工場で働いていた。

その後アメリカの自動車産業は日本車に敗退して今にも潰れそうだ。ウォルトの馬鹿息子だってトヨタのセールスマンをやっている有り様だ。冗談じゃないと彼は思っている。

老いたウォルトは、アメリカ中西部のさびれ行く町で、毎日することもなくポーチに座ってPabst Blue Ribbonのビールを飲んでいる。

このミルウォーキーの香り高いビールは私の好みだったが、ブルー・リボンの名のとおり、ブルーカラー、すなわち工場労働者のビールだった。

隣人たちがいつのまにか東洋系ばかりになってしまった町から、彼が愛し誇りに思って来た「アメリカ」が融けて流れて消えて行くばかり。白人の若者も不甲斐ないやつばかりだ。

ウォルトは、いつも軒先に星条旗を掲げ、毎日、狭い前庭の芝刈りを怠らない。三十数年前、自分が工場の組み立てラインで部品を取り付けた「グラン・トリノ」を今も新車と見紛うばかりに手入れしている。その車はアメリカの栄光の象徴であると同時に、彼の人生の誇りそのものである。それを守ろうとひとりぼっちのささやかな抵抗を続けている。

しかし彼は老いて行くばかり。肺を病んでおり時々咳き込んで吐血する。アメリカが老いて病んでいるのだ。

ちなみに、クリント・イーストウッドは82年に制作した"Honkytonk Man"(たまたま「すご録」に入っていたので昨日観たが、これもいい作品だ)の中でも血を吐いているが、吐血に関するオブセションがあるのだろうか。

隣人の東洋人たちは嘆かわしいほどアメリカの価値を無視し壊して行く。それどころか彼らの価値観を辟易するほど押しつけて来る。

ある日、その隣家の東洋娘が白昼路上で黒人ギャングに取り囲まれているところを、通り掛かったウォルトが助ける。それが切っ掛けで、隣家との付き合いが親密に変化して行く。ウォルトは、それまで人種偏見の対象でしかなかった彼らが、自身の息子たちよりもよほど道徳的な人間であることに気付くようになる。

しかし隣家の親戚にはギャング集団がおり、東洋娘の内気な弟を脅して手引きをさせてウォルトの「グラン・トリノ」を盗もうとする。

いつのまにか東洋人隣家と親戚同様の付き合いをするようになっていたウォルトは、ギャング集団と一家の腐れ縁をなんとか断ち切ってやろうという意欲を燃やすようになる。そして、敵のアジトに踏み込みきついお仕置きを見舞う。

ところがそれが逆効果となり、一家はギャングたちからの過激な反撃に遇っただけでなく、東洋娘が暴行を受けるという事件に発展する。

責任を感じたウォルトはギャングを殲滅する計画を練る。ここにいたって内気な弟も命懸けの復讐を誓う。いよいよ彼がギャングたちを銃撃で退治する結末を期待するところだが、意外にも、ウォルトは丸腰でギャングたちの前に進み出て、彼等の無数の銃撃を全身に受けて死んでしまう。しかし、ギャングたちは警察の手で逮捕され東洋人一家の前から姿を消すことになり、計算通りに、ウォルトの目論見は実現する。

死後、ウォルトの遺言が発見され、「グラン・トリノ」は、実の息子たちではなく、東洋人隣家の内気な弟に与えられることになる。

ウォルトとの付き合いの中でようやくアメリカ社会を生きるに相応しい逞しさを身につけた若い東洋人が「グラン・トリノ」、すなわち「アメリカ合衆国」でありウォルトの魂でもある象徴を運転してミシガン湖畔を走るシーンで映画は終わるのである。

アメリカの現代を生き終えようとしている誰もが抱くであろう落日の思いがある。また、アメリカの未来に関する暗喩もある。これではいかん、という思いと、これでいいのかも知れないという思いとがアンビバレントに響き合い協和とも不協和とも言えないモダンな和声を紡ぎだしている。

サブプライムローンで金持ちは大儲けをしつつ大損をし、貧乏人は夢を見つつ夢破れ、アメリカの国力の象徴たる自動車産業をとうとう乗り捨てて、アメリカという国は黒人大統領のもと新しい国家に生まれ変わろうとしている。我々がこの現代を何十年か先に思い出すのに、この映画はきっと一つの道標になっているに違いない。

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2008.01.18

08・01・18 大田弘子経済財政担当相を大いに見直す

今日の衆議院本会議での国務大臣の演説(施政方針・外交・財政・経済)、大田弘子さんの演説が最も心に響いた。イライラするほど旗幟不鮮明な福田内閣にあって、ようやく政治家?から本物の政治的な言葉を聞いたような気がした。民間の経済専門大臣ということもあろうが、もう我慢がならないと政治的しがらみをエイヤーッと吹っ切ったような迫力があった。私は一気に大田ファンになった。

演説の冒頭でいきなり、わが国の誰に対してだからわからないが、要するにダメだしをしたのだ。「2006年の国民経済計算によりますと、世界の総所得に占める日本の割合は24年振りに10%を割り、一人当たりGDPはOECD加盟国中18位に低下しました。残念ながらもはや日本は経済は一流と呼ばれるような状況ではなくなってしまいました。」と述べたのである。経済は一流、政治は何流、とまでは言わなかったのはせめてものポリコレではあるが。

「これまでアナタのプライドを尊重して優しい言葉でそれとなく諭してきたけど、(ここで突然声の調子が厳しくなって)アンタはいつまでグズグズしてんのー!」ということだ。しかもその「アンタ」とは大田大臣が所属する福田内閣そのものだ。

テレ朝の報道ステーションの報道による限り、大田大臣が演説の中でこういうあからさまな指摘をすることは、必ずしも内閣の承認を受けていなかったようだ。

アメリカでは民主党のヒラリー・クリントンが党の大統領候補への道を歩んでいるようだが、今日の演説を聞いて思いがけず、大田さんの姿がそこに重なった。

これまで考えても見なかったが、既得権の調整だとか権威のメンツへの気配りだとかを大胆に無視し、ホンネしか受け付けないリーダーシップというのは、案外、今の日本には効くかも知れない。男の政治家を怒らせるような非政治的なことでも、正論ならばと、しゃーしゃーとやってのけることが出来るのは、女性だけかも知れない。「女の平和」じゃなくて「女の改革」。あるかも知れない。

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2008.01.09

08・01・09 米国の新聞サイトはネット新聞に変身していた

クリントンがニューハンプシャーで意外にも?勝利した。直前の涙の報道は大統領としての資質の欠如というメッセージかと思ったのだが。

ま、それはともかく、今日、どうなったかなと米国の新聞サイトを時々覗いていて、思ったことは動画による報道が多いことだ。写真だってスライドショーになっている。ニューヨークタイムズでもワシントンポストでも同じ。画面にカメラのアイコンが目立つ。クリントンの涙の動画も勝利宣言の動画も観ることができた。紙媒体ではないネット媒体としてのニュース報道が実現しているではないか。動画取材の記者がいるということなのか?それともテレビとの提携なのか、それはわからない。そこまで細かくは見なかったが。

数年前、ネットにやられてしまうという危機感をもったのは当然ながら日本より早かった。米国の大手新聞社ではネット媒体と紙媒体と制作体制を一体化するといった組織改革があったことを記憶している。そのころ日本の新聞はまだのんびりしていたと思う。日本はちがうのだという不思議な特別意識さえあったかも知れない。

日本の新聞は今になってネット対策に深刻に悩んでいると聞く。たった今、日米の新聞サイトを比べてみると、この時間差は歴然としていると感じた一日だった。

この意外に早い変化の背景には、アメリカでは経営に対して変革を迫る市場の圧力が健全に働いているのではないかということを感じる。マードックがダウ・ジョーンズを買収したように、自己改革を起こさないでもたもたしていると、どっちみち改革の意思とアイディアをもった資本に、買収され改革を迫られるのだ。従って経営者は買収されたとしたら?という前提で動かざるをえない。それが大胆な自己改革を促してゆく。

日本の構造改革がなかなか進まないのは、市場からのプレッシャーがどこかの防風林でブロックされているからではないのかと感じた一日だった。

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2006.12.16

06・12・16 スポーツ報道とイジメ「元素」

いつものようにiPodでKQEDのマイケル・クラズニーのpodcastingを聞いていたら、最近ある本を出した著者が登場して"Hikiko Mori"について話し始めた。「森 ヒキ子」?どんな字を書くのかと思ったら「ヒキコモリ」の話だった。どうやら"hikikomori"もかつての"otaku"のように英語の語彙に入りそうな気配を感じた。

イジメ問題の「元素」というべき何かがあるとすると、それは日本人「みんな」の精神にかなり広く蔓延していて、ある時はイジメという形をとり、またある時は醇風美俗として現れるという性格のものではないか、という気がする。

例えば、こういう現象がある。日経新聞や朝日新聞のプロ・スポーツ報道で私がしばしば気になっていることだ。

ゴルフトーナメント初日、無名の選手がトップに立ち、一方、優勝候補とされる有名プロ○○が出遅れたとする。この場合、見出しは「○○、首位に△打差スタート」と来る。記事の本文ももっぱら有名プロのレポートばかり。どこを探しても首位の無名プロにインタビューした話とか、その選手の経歴などの情報がない。

確かにカリスマ性のある有名選手は、たとえ成績が振るわなくてもファンにとっては一挙手一投足が興味の対象ではある。だから読者が読みたい記事を提供するとこうなる、ということかも知れない。

しかし根はもっと深いと睨んでいる。

どうも「我々」日本人は財界やら政界やらスポーツ界などの日本の「~界」を見る時に、特定のボスをトップに戴く主流派とその他という分かりやすい安定的な構造に整理したいのではないか。

裏返して言うと、ボスが存在しない多極的で流動的な構造を常態として受けいれたくない。

だからいったん構造が決まった後は、どんな場合でも「~界」のボス、親分、主、権威、大御所、重鎮、天皇の動向や意向がもっとも重要なのだ。ボス以外の身に何が起きようと関心がない。

ここにイジメ問題の「元素」の一つがあると直観する。

言うまでもないが、プロになって初めて有名選手を押さえて試合でトップに立ったとしたら、当人は、大々的に報じられるべき大ニュースだと思うだろう。なのにそれを報じてくれない状況を「イジメ」と感じるのではないだろうか。

「客観報道」を標榜する新聞も、こうして無意識のうちにイジメ元素の温存に手を貸しているような気がするな。

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2006.06.11

06・06・11 中国標準Excelのフリガナ機能に翻弄される

高校の同窓会の出席者名簿を作成していてExcelの奇妙な振る舞いに悩まされた。

名簿を卒業年の年号・年・クラスでソートするのだが、どういうわけか部分的に順序が狂う。

名簿は葉書などの回答をExcelに手入力した物と、ホームページで受け付けた結果のCSV形式の物とを1枚のシートに結合させてからソートにかけているのだが、例えば、昭和41年が昭和30年より前に来たりするのである。

サンプルを示すと、こんな現象である。

Excelsorta

そんな馬鹿な!と思うのだが、何度やっても同じ結果になる。何度でも同じ結果を出すことこそがプログラムの便利な特長なのだが、こういう時はそれが恨めしい。何とかしろよとゴネれば治るかも…とは思わないが。

考えてみると、以前にもこういう現象に遭遇したことがある。その時は深く追求せずに放置したのだが、今回ばかりはなんとしてでも原因を究明して解決しなければならない。

なぜかというと、同窓会の参加受付はこれからが本番で、500件前後のデータを処理しなければならず、このいい加減なソートのままでは混乱は必至だから。

結論を説明すると、原因は文字列の「ふりがな」機能だった。下の図をご覧いただきたい。書式の指定でフリガナの有無を表示させることができる。Excelシートに手入力したデータには自動的にフリガナが付くが、外部から取り込むCSV形式のデータにはフリガナがない。

Excelsortb

さて、どうしてソート結果が狂うかと言えば、それは、データの並べ替え機能のオプションが標準では「フリガナを使う」となっているからなのだ。フリガナが付いているデータを優先し、付いていない物は後にしている。

ここまで実態が解明されれば、そもそものソート結果は当たり前の現象だと理解できる。問題は、ソートの対象とされているフリガナが、セルの書式設定では標準表示にはなっていないことだ。

むしろフリガナ機能は隠されているように見える。だから、うかつと言われようとも、私などは10年以上もExcelを使って来て、フリガナ機能を明確に意識したことが一度も無かった。

ちなみに、私はソート機能をExcel VBAから使っていたのだが、フリガナを使うか否かのオプション設定の値を示す名称にはちょっとショックを受けた。

SortMethod:=xlPinYin (ピンイン)とあるではないか。これは中国語を標準として設計されているってことじゃないか。これじゃあ日本語の立場で文句を言っても通じないだろうな…と僻んでしまう。なお、フリガナを外してソートする場合は SortMethod:=xlStroke (画数かな)と指定する。

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2005.09.12

05・09・12 いい選挙だった

数字的には小泉自民党「圧勝」民主党「惨敗」という選挙に終わったわけだけど、ちょっと違う意味で今回の総選挙には感銘を受けました。ウィリアム・ワイラーではないが、わが生涯最高の選挙かも知れない。なぜそう感じるのか。以下のコメントは順不同。

その1。今回は明らかに小泉さんの問題提起こそが投票率を押し上げた。特に若い人が投票に出かけた。ウチの息子は棄権したらしいが…。投票率の高い選挙はよい選挙と言わざるを得ない。

その2。国民はなんだか長年の政治閉塞感から解放された気分。疑似国民投票でありこれぞ政治だという気分。こんな経験は初めてで教育効果も大きい。

今後の解散のタイミングとイシューの煮詰まり具合の一つのデ・ファクト・スタンダードを作ったのではないか?恐らく若手・中堅の政治家は今回の解散総選挙における状況の追い込み方を今後の政治で一つの手本とするに違いない。

もっとも、今回は対抗側が余りにも戦略戦術的に稚拙だったことが小泉さんにプラスになった感もある。

その3。綿貫さん、いいなと思いました。彼は小泉自民党の郵政「民営化」の被害者になると思い込んでいる層を代弁する顔になりました。

綿貫さんはもともと神主さんとのこと。確かに氏神様がスーツを着ているみたい。政治討論番組などに登場する様子を見ていると、この人なら、これから郵政民営化だけでなく様々な点で日本国内の都市部と農村部との利害の再調整を進めるにあたって、攻め入る資本の論理を前にして、訥々と反論する農村側を代表する老紳士として適任だと感じました。

政界はまだまだ流動的だと思いますが、田中角栄に始まった都市と農村の間の社会主義的な富の移転をテーマとして来た政治家は今でも沢山いるはずで、その皆さんは綿貫さんの下に結集したらいかがでしょうか。大地のムネオさんもそうでしょう。

その4。ちょっと早いかも知れませんが民主党の役割は早くも終わったかな、と感じます。都市型の政党はどうも小泉さんに横取りされてしまった感じ。もとよりポスト産業資本主義時代に民主党の基盤である労働組合ではもう勝てない。一方で都会からの同情票とか望郷票も集められるような農村基盤の政党はどうも綿貫さんが適任に見える。そうすると民主党の演じる役割が残らない。ということは民主党は分裂しかない。

その5。公明党や共産党という存在はとにかく味わい深い。争いを好まない和をもって貴しとなす日本では穏健な中道路線が無難であることは間違いないでしょう。たまたま現在は政党に宗教色や元イデオロギー色がつくからいま一つ弾けないわけだが、もしも、そうした色や臭いを抜き取ることができたら、これぞメジャー日本党になるのになぁ、惜しいなと感じます。

その6。この雪崩的な議席数の変化。確かに小泉与党は圧勝したけれど、あくまでも小選挙区制度が得票差を誇張して議席数に反映する効果のなせるワザ。勝った側も次回は劇的な転落を遂げるかも知れない。要するに安泰な政権は無いということ。だからこそ政権側に緊張が生まれる。勝利後の自民党武部幹事長や小泉総理の意外にこわばった表情が印象的。これは国民にとってとてもよいことだと思います。小選挙区制の劇薬性とでもいいますか、そういう点を政治家も国民も学習したということ。こういう制度を活かすメリハリの効いた政治を、同時に節度をもって実行してもらわないといけないということでしょう。

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2005.08.20

05・08・20 ヒロシマ・ロックはJIBJAB

自民党の広島6区の扱いはいかがなものかと思いますね。

亀井静香さんの対抗としてホリエモン(もう人物というよりキャラクターになっていますので、こう呼ばせていただきますが)を持ってきたまでは良いとしても、無所属だという点にひっかかるのです。

今回の選挙は、基本的には英国の小選挙区制度と同じく、政権公約に対して投票するものと私は理解しています。要は、政党が公約に掲げた政策の実行を可能にするために投票するのである。候補者が若いか年寄りか、頭がいいか悪いか、道徳的か不道徳か、義理人情に厚いか薄いか、性格が良いか悪いか、かわいいかかわいくないか等々の個人的資質のコンテストではない、ということ。

無所属ではその原則が崩れるじゃありませんか。

新聞報道では、自民党は、色々な角度から損得計算した結果、公認しない方が無難だと判断したとのこと。ただし、他の候補は立てないわけで、従って、小泉自民党を支持する人は無所属のこの人に投票してくれというわけです。

しかしながら、世の中スレスレであろうが合法は合法ですから、無所属はあくまでも無所属です。その意味でホリエモンはまだフリーハンドを確保しているように見えます。スレスレには実績のある人だけに、そこにひっかかりを覚えるわけですね。

また別の観点から考察すると、亀井さん側は対立候補が憎き小泉自民党じゃないという事実は、ちょっと戦いづらいのではないかな。得意の人情に訴える戦術が使いにくい。

亀井さんは郵政民営化反対の象徴ですから、小泉さんとしては、どんな方法であれその当選を阻止できればそれでよい、という考えかもしれない。

私はまったくの野次馬の立場の広島6区ですが、亀井さんは元警察官僚の立場を利用した敵のスキャンダルをほじくり返すような選挙戦はやらない方がよいと思いますね。ここは思い切って先手必勝でJIBJABを先に制作してしまう。キャラとしては二人とも個性十分だから面白いものができるでしょう。"ヒロシマ・ロック"で盛り上がること、間違いない。

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2005.08.15

05・08・15 「価格破壊の裏に人権コストあり」NBCのDateline

podcastingのまねごとはしばらくお休みしておりますが、今はもっぱら聴く側に廻って、アメリカのラジオ放送ネットワークNPR(National Public Radio)のpodcast版を楽しんでいます。

なかでも先日聴いた"The Leonard Lopate Show"は刺激的でした。レナード・ロペートという人が様々なゲストとの遠慮のない会話を聴かせる番組で20年も続いているらしい。

8月3日のゲストは全国労働委員会のチャールズ・カーナガン(Charles Kernaghan)という活動家。テーマは「労働者の権利」(Workers rights)。

カーナガンは6月にNBCのDatelineというドキュメンタリーのシリーズで"Human cost behind bargain shopping"、訳すと「価格破壊の裏に人権コストあり」という番組を制作しており、podcastingではその取材裏話を紹介しています。残念ながらNBCの番組の動画はもう見られないようです。

アメリカの大手小売店に並ぶバングラティッシュ製のパンツの価格は13ドル。現地の縫い子の週給はたったの12ドル。それも自由にトイレにも行けないエアコンも無い奴隷的環境での週70時間労働で時給17セントにしかならない。NBCの映像には、縫い子がアメリカに招かれて自分が縫ったパンツの値札を見てショックを受けるシーンがあります。

時給17セントは現地では合法ではあるし、発注主のアメリカ企業が何か法を犯しているわけでもない。しかし、労働環境も生活環境もおよそ「人権」からほど遠いという現実があり、それを経営者は見て見ぬふりをしている。

恐らく、先進工業国の消費者で、奴隷的な労働力を是認する人はいないでしょう。しかし、その同じ消費者がより安い製品を求める。だから、企業のコストダウン努力は称賛されこそすれ、止めろと言う人はいない。

言うまでもなく、今日のグローバル企業は、ブランド価値を高めて価格を高く維持する一方で、発展途上国の安い労働力を使って製造コストをとことんカットするのが一つの基本戦略になっています。

安い外注先を探すことを命じられたビジネスマンが個人的な正義感から高い工場に発注することはできないし、やったとしても、その行為は結局徒労に終わるでしょう。当人がNaomi Kleinだったとしても難しいかも知れない。企業は競争に負けるわけには行かないし、株主だって迷惑である。企業が個人的な倫理感で行動することは非常に難しい。

話はとびますが、環境ISO14001ではグリーン調達といって、環境ISOに取り組んでいない企業とは取引をするなという運動があります。世界中の企業がネットワークを組むのでグリーン調達のプレッシャーはだんだん実効性を持つと予想されます。

podcastを聴くとカーナガンは法的強制力で何とかしようという考えを持っているようですが、人権ISOという方法もあるのではないかと思うのですね。人権ISOを取得するということは製品にその旨表示するだけでなく、人権ISOを取得していない工場を受発注関係のネットワークから外すのですね。

調べてみるとバングラティッシュの人口の88%はイスラム教スンニ派だとのこと。まさにイスラム過激原理主義とつながりやすい宗派ではありませんか。

思うに、アメリカの売り場を見て自分が奴隷だったことに気づいたバングラティッシュの縫い子は今は一人ですが、このインターネット時代にその認識は必ず広まるでしょう。その結末は工業先進国に対する激しい憎悪となり、テロ勢力と結びつく可能性もあるでしょう。

さて、会社を経営していると、労働法の改正などに応じて就業規則を修正する必要がけっこうあって、そのたびに厚労省がまめに日本の労働者の権利を保護し強化していることに気づかされます。

しかし企業活動がグローバル化したこの現代に、厚労省の有能な官僚が、世界的に見ても既にかなり高い水準の労働条件を得ている日本国内の労働者のことばかりを事細かに心配しているとしたら、なんだかその頭脳がモッタイナイ。

それどころか、もしもその国内労働力が海外で奴隷的労働力を調達する業務に従事していたとしたらコッケイでさえあるし、我が身に降りかかって来る国際テロを生み出す土壌に肥しをやっているような愚かな行為かも知れない。

podcastの中でもカーナガンはこうしたコッケイ現象を指摘しています。NFLのスター選手たちのロゴの付いたジャージが、ホンジュラスの時給19セントの奴隷的労働力で作られて、アメリカで75ドルという値段で売られている。そのロゴ使用料はNFLの選手組合に入るので、要するに選手たちのストライキ資金となっているというのです。貧困の中から這い上がって来た選手たちが、まさに自分達の故郷のような国の奴隷的労働力を利用して巨額な年俸を守る組合活動の資金を得ているという構図になる。

podcstの冒頭でホストのレナード・ロペートは「カーナガンさんはだいたい悪いニュースをお持ちになるのですが…」と皮肉まじりにこの過激な活動家を紹介するのが可笑しい。終始ホストは活動家と一定の距離を保ちながらインタヴューを続けますが、NBCのDatelineのプロジェクトとして、隠しカメラを仕込んだ眼鏡を掛けてバングラディッシュの工場を訪問し、投資家のフリをして工場見学を実現させ、不当労働行為を裏付ける証言を経営者と労働者の双方から取った執念に静かな感銘を受けていることは明らかでした。

こういう番組を聴けるpodcastは非常にありがたい。日本の民放局も、電波放送にこだわらずに、podcast用のドキュメンタリー番組の制作に取り組んでほしいものですね。

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