2009.04.12

09・04・12 NAXOS MUSIC LIBRARYに寄り倒される

たまたまたどりついたこのNAXOS(ナクソス)のサイトで、お試しの無料試聴をしたのが運命の扉を開くことになった。

きっかけは、私のお気に入りで一緒にカラオケもしたことがあるジャズ・ヴォーカリストPinky WintersのCD"Rain Sometimes"で伴奏をしているRichard Rodney Bennettだ。聴くたびにこのピアノがとてもいいと感じていた。何者だろうと、たまたま今日、google検索した。

リチャード・ロドニー・ベネット (Richard Rodney Bennett) - 作曲家 ...A musician of great versatility, the English composer Richard Rodney Bennett studied in London with Lennox Berkeley ... In addition to his very varied work as a composer, he is also known as a pianist, not least in jazz performances. ...
で、NAXOSのこのページに連れた来られた。やはり、ただものではないことがすぐわかった。作曲家である。さもありなん。15分間の無料試聴で彼のJazzの弾き語りを聴くことができた。そんな音源に出会えるとは、想像だにしていなかった。これは凄いことだ!

NAXOSのCDはけっこう買って来た。あまり馴染みのない楽曲をとりあえず音だけでも聴きたいという時に、ここの膨大な品揃えは頼もしく、マイナーな作品でもけっこう見つかるのだ。私にとっては音が出る楽曲百科事典のような存在である。もっぱら名曲の名演を求める楽しみ方には適さないかも知れないが。

NAXOS MUSIC LIBRARYとは、その音源を月々1890円で「聴き放題」だというのだ。ダウンロードはできない。ストリーミング方式である。試聴サービスを体験したあと、自問自答してみた。

問1 年間CDを幾ら買ってるかな?
答1 最低でも10枚以上は買ってるだろうね。

問2 で、そのCDに満足しているかな?
答2 当たり外れ、色々あって、すぐに聴かなくなるモノも多い。熱が冷める場合もあるし。

問3 そもそも、CDの整理ができているかね?
答3 まったくダメ。目的のCDはなかなか見つからない。買ったことを忘れているモノもある。置き場所にも困っている。

問4 買ったCDをiTunesに放り込んでるかな?
答4 iPodが壊れたのがきっかけで、もう殆どやっていない。そもそもいつクラッシュするかわからない自宅のPCにデータベースを構築するのは不安だ。

問5 新しくCDを買う切っ掛けは?
答5 コンサートで知った楽曲を買い求めるパターンが多い。アンコールで演奏された曲が魅力的なのだが、名前がわからなくて、無性に知りたく、また、欲しくなることがよくある。

問6 月々1890円という料金体系をどう評価する?
答6 まず、CD購入を減らすことで簡単に1890円/月は捻出できるだろう。だから決して損にはならない。これは確実だ。

問7 新たに得られる価値は何だろうか?
答7 なんと言っても、あの膨大なNAXOXの音楽DBから好きな作品を検索して聴くことができること自体が夢のような贅沢だと思う。まさに音の出る楽曲百科事典だ。同じことをCD購入でやったら金銭的に大変なことになる。その贅沢の値段としては間違いなく安い。好奇心のおもむくままに音楽の「大人買い」ができる。


と考えて、サッサと会員登録をして使い始めた。

今日、一日だけでもたぶん20枚以上のアルバムからいろいろな作品を聞きかじっただろうか。

昔、譜面だけもらって歌伴をさせられたベンジャミン・ブリテンのSailor Boyも初めてプロの演奏を聴くことができた。やっぱりこの曲は難しい! 清水有紀さんのコンサートで聴いたドヴォルザークのロマンティックな小品 Op. 75の I. Allegro moderatoにも再会することができた。実にせつない美しさを湛えた曲だ。今、練習中のアントニオ・ラウロの4つのワルツのお手本演奏もある。

もうこれからは音楽CDをあまり買わなくなるかも知れない。iPodの時以上に、この漠然とした予感が強まったと感じる。今日は、音楽消費者としての行動パターンが、あるtipping pointを越えた瞬間だったと思う。

私はNAXOS MUSIC LIBRARYに完全に寄り倒されたのだった。

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2008.07.31

08・07・31 バーンスタイン生誕90年

DSCF3036海の日の連休、札幌でゴルフのついでに立ち寄ったコンサートは、そもそもバーンスタインが関わって始まったという真夏の音楽フェスティバルPMFだった。しかも今年は生誕90年ということで、プログラムは彼の作品一色。少し遅れて着いたのでキャンディードは聞けなかったが、交響曲不安の時代やウェストサイドストーリィのシンフォニックダンスなどを聴くことができた。

DSCF3022会場は真駒内の芸術の森の野外ステージ。生憎の雨模様で時々吹き込んで来る雨しぶきを気にしながらの鑑賞となったが、一言で言うと感動した。

DSCF3047締めくくりで指揮者の尾高忠明さんが、本来しんみりと伝えたかったであろうメッセージを、マイクがないもんだから、両てのひらで拡声器を作って叫ぶように話されたことが私の胸にもズキッと的中した。バースタインの作品を色々まとめて演奏してみると、作曲者の大きな人間性に胸を打たれるというようなことだったと思う。

DSCF3040この日聴くことができた作品はとても自然なジャズ臭さをたたえていた。そんな言い方があるのかどうかわからないが、作曲家としてのバーンスタインは現代アメリカの、というかニューヨークの、民族楽派の作曲家だったんだなという印象を深めた。アメリカは一つの民族ではないが、そこに共通の魂があり、それが音楽として鳴っているように感じた。

DSCF3028ステージ上の演奏者はほとんど若者ばかり。オーディションでこのフェスティバルのために編成されたオーケストラのようだった。アジア系、欧米系、顔はさまざまで、オケ自体が民族の坩堝たるニューヨーク状態。

じつは聴く方に回った私たちオジサンは、日本にいながらテレビや映画を通じて、アメリカ文明に深く影響されて育った世代だ。高校から大学にかけての時期、NHKテレビでバースタインがニューヨークフィルを指揮しつつクラシック音楽について語る番組を食い入るように視ていたのだ。彼はとてもカッコよかったし話も面白かった。

DSCF3027ウェストサイドストーリィの影響も大きいが、バースタインの音楽は我々の時代の音楽だと感じることができる。同時代の作曲家は他にも沢山いるが、かならずしもこういう同時代感を感じる人ばかりではない。

演奏会の最後は尾高氏の呼びかけで聴衆を巻き込んでの"Happy birthday, Lenny!"の大合唱となった。素晴らしい演奏会だった。たったの2,000円で!

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2008.05.11

08・05・09 東京フィル+椎名豊トリオでラプソディー・イン・ブルー

5月9日の金曜日、東京フィルのサントリー定期、じつは、格別の期待もなく出かけたのだが、終わってみたら、予想外の贅沢なもてなしを受けた気分でホールを後にした。

演目は、アメリカの現代音楽が一つ、ガーシュインのラプソディー・イン・ブルー、そしてベートーベンの7番だったが、ガーシュインで一気に今夜は特別だぞというモードに突入した。

そもそも予兆は1曲目にあった。ステーヴン・マッケイ(Steven Mackey)という人のターン・ザ・キー(Turn the Key)という日本初演の作品。

という作曲家の名前も作品名も覚えていないので、いま、あらためてプログラムをひっくり返して書き写しているだけだが、これが、

「曲の冒頭は、打楽器奏者が自由なテンポで手を叩き、ホールの後ろからステージへ向かって歩くようにという指定がある。やや遅れて2人目の打楽器奏者が4分音符=92のテンポで登場。2人のセションとなり、やがて聴衆もこれに参加。そして指揮者がようやく小太鼓へスタートの合図を送って、オーケストラが目を覚ますのだ。」
というもの。

開演前にこの説明を読んで、現代音楽にありがちな作者の独りよがりに付き合わされるうんざり感を想像した。ところが、この演出がけっこういい。一般的に現代的作品とは敵対しがちな保守的聴衆の心理をアッという間につかんでステージの上に連れて行ってしまう。鳴り出した音楽も音色のカクテルがけっこう口当たりがよくて楽しめる。格式にとらわれないアメリカ的なサービス精神に富んでいる。

10分間の演奏はヒュー・ウルフ(Hugh Wolff)という初耳のアメリカ人指揮者=シェフが母国から取り寄せた気の利いたオードブルとなった。この店、けっこう良さそうだ、という空気になったところで10分間の休憩。

2曲目の開演にむけてステージが作られる。中央には見慣れたピアノが1台。いつもと違うのはその横に、ジャズのライブハウスから切り取って来たように、ドラムズのセットとウッド・ベースが置かれたことだ。不思議なもので、もうこれだけで自由な空気がステージに流れている。やがて三々五々座り始めるオケの奏者たちも、すでに心がスイングしているように見えてしまう。

ラプソディー・イン・ブルーの主役はジャズの椎名豊トリオだった。

冒頭、まずピアノソロから入るので、ありゃ?と驚かされる。聞き慣れたクラリネットのグリッサンドはその後で始まった。これがまたアッと驚くJazz感あふれる節回し。

まるでオケがジャズ的に発情して、おれたちも仲間に入れてくれぃニャンニャンと椎名トリオに向けて発したラブコールに聞こえた。フツーはこの関係が逆で、ジャズからクラシックへのおずおずとしたラブコールに聞こえるものだ。YouTubeにあるバースタインの演奏でさえもそうだ。ガーシュインのクラシック作品が時に痛々しく聞こえてしまうのはここに原因がある。東京フィルではそれが逆転したのだから驚いた。

それもむべなるかな。初めて聴いた椎名豊という人のピアノは音の隅々にまで表現の意思が込められており、従ってそこに自ずと一つの人格が立ち現れる、まぎれもない一流の音楽だった。

そのピアニストがこの際はJazz側に居て、要所要所にトリオの即興的と思われるセションを挿入しつつ進行するのだから、もうこのラプソディー・インブルーはピアノトリオ・コンチェルトとでもいうべき形式だった。ジャズが主役としてのびのびと自分の音楽を語りつつオケとも対話を重ねて行く、まことに、これこそがラプソディー・イン・ブルーのあるべき姿かと、図らずも感動が込み上げて来た。

演奏後の拍手がすごかった。ふだんとは明らかに鳴りが違う。ちゃんと伝わるのである。

この形式を企画し椎名トリオを指名したのが指揮者だとすると、ヒュー・ウルフという人はただものではない。ということで、ベートーベンの交響曲第7番ではもっぱら指揮者への好奇心がそそられることになる。

ヒュー・ウルフはちゃんと音楽を指揮していた。そんなの当たり前じゃんと言われるかも知れないが、個々のフレーズを指揮するが音楽を指揮せず、という印象を与える指揮者がいかに多いことか。これは振り始めるとすぐにわかってしまう。

印象的だったのは、第3楽章のトリオの部分のテンポだ。もったいをつけたベートーベン節にせずに比較的あっさりと軽快に足早に通り過ぎて行った。勘違いかもしれないがそう思った。最初はまさにもったいない感じもしたが、第4楽章で激しく人心を鼓舞する仕事が待っているのだから、そんなところでノンビリたるんでいるヒマはないぞ、というメッセージだったような気がする。

その効果なのか、最終楽章Allegro con brioでオケはもうすっかりベートーベンと一体化し激しく波うち燃焼した。この楽章は、精神的運動不足の人間をつかまえて、精神のラジオ体操をしつこく迫る押しつけがましさがあるが、たまに聴く分には気分爽快だ。

改めてカルロス・クライバーのCDを聴いて記憶と比較してみたが、そもそも第2楽章で十分にしんみりして来ているので、流れとしてはヒュー・ウルフの方がスムースであり、全体構成が納得しやすい。やっぱりこのアメリカ人指揮者は凄いぞと思った。

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2008.02.16

08・02・16 ハーディングの指揮でマーラーの交響曲第6番

昨晩(2月15日)、東京フィルのサントリー定期はダニエル・ハーディング指揮でマーラーの交響曲第6番。

この日の演目はプログラムに演奏時間79分とあるこの作品ひとつだけ。途中の休憩も無しという変則的な演奏会だ。しかし、大きな充足感をいだいてホールを出た。

ハーディングという指揮者は凄いと思った。作品の魂のうねりがこの人の肉体を媒介してオケに向けて、さらにホール全体に向けて凄いエネルギーで伝わって行く。その世界の振動が振らせているかのように指揮棒がじつにしなやかに優雅に表情豊かに宙に踊るのである。聞き惚れるだけでなく見惚れる指揮だ。

この作品はいたるところに見せ場や聴き場?がある。

だが、何といっても驚きは第四楽章の終わり方だった。最後の音を鳴らした後、ハーディングは指揮棒を下ろさない。棒は宙に静止したまま。身体も微動だにしない。

オケも同じで、バイオリンもチェロも最期の弓を弦から離した状態で凍結している。チェロの首席には、以前も東京フィルに参加したことがあるソリストのルイジ・ピオヴァーノ(だと思うのだが)のひときわ存在感の大きい姿があった。彼の弓が宙で静止し彼の大きな二つの目がまばたきもせずハーディングを凝視していた。

ステージ全体が一枚のスティル写真のようだった。

ホールにも完全な無音という音が響いた。うまいことに咳ひとつ聞こえない(これは聴衆側の大ヒットだ)。オケも聴衆も全員が息をひそめてハーディングの動きを待った。演奏にも匹敵する濃密な無音の時間が流れていた。凄い。ジョン・ケージも真っ青だ。

思い起こすと30秒ぐらいだったのだろうか。ハーディングの身体から緊張が抜けて行くのを目ざとく見届けた人が先行して拍手を始めて、ほどなく大拍手が巻き起こって演奏は終わったのだった。

その直後、私には解凍したルイジ・ピオヴァーノが目頭を手で拭ったように見えた。

それにしても、マーラーはこの最終楽章の最後の最後の休符を、どのように書いているのだろうか。あるいはハーディングの発明なのだろうか。

こういう無音の演奏はCDでは伝えようがない。素晴らしい演奏会だった。

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2008.02.06

08・02・06 ギターのナイロン弦の不思議

このところ毎日のように寝る前のわずかな時間にギターを弾いているのだが、どうにも首を傾げたくなる不可解な怪現象に遭遇している。

それはこういうことだ。

前夜ケースにしまったままのギターを24時間ぶりに取り出して、調弦をチューニング・メーターで調べると、1弦から3弦あたりが前日よりわずかにピッチが上がっているのだ。引っ張られた弦は伸びる一方だから下がるのならわかる。それが逆に上がっているから悩むのだ。楽器はケースの中でじっとしていただけだから、もちろん、誰も弦を巻き上げてはいない。

一般的には、ひとたび巻き上げた弦は、一定の張力の状態に達したとしても、糸巻とか駒とか弦のたるみが生じる箇所があり、演奏の振動などの刺激を受けて次第にそうした部分のたるみが解消される結果、巻き戻したのと同じ効果が発生し、張力が低下し、ピッチは下がる。

そもそも、一度巻き上げた弦の張力は自然放置したら後は下がるしかないだろう。にもかかわらず24時間後にピッチが上昇したという現実を認めるなら、考えられることは、弦の材質の密度が低くなったというか、単位長あたりの質量が低下したというか、そういう材質の変化が起きたのだろう。

現在、ギターが置いてある部屋の湿度は36%で温度は21度だ。かなり乾いていると言ってよいだろう。例えば弦の材質が湿り気を宿していたとして、乾燥した環境におかれた結果水分を失い質量を失い、結果的に同じ張力でもより軽やかに振動し、ピッチの上昇を来す、ということはあるかも知れない。

ただ、それにしても、実際に音を鳴らしている実感からすると、あまりにも短時間のうちにピッチが変化するのだ。24時間どころかほんの10分でも狂うのだ。

科学的に誠実であるなら、木できできたギターの本体が伸びをするように長くなる可能性も考えなくてはいけないが、残念ながら、弦長650mmの私のギターは今も650mmのままだと思う。※毎晩長く伸び続けたらどうなることやら※

ということで、原因は弦に、だから弦因だろうとは思う。

しかし何故だろう。

もしかしてと思うのは、私の妄想だが、製造してから年数のたった古い新品の弦の場合、ミクロ的に見るとナイロンの表面には無数の亀裂が生じている可能性がある。だいたい古いプラスチックはそんな感じだ。亀裂があるということは空気に触れる表面積が広いということだ。もしも空気に触れることによって、特に低い湿度条件のもとで、プラスチックの成分が飛んで行ってしまう?ことがあるのなら、それにより質量が減少して、結果的に同じ張力でも振動数が高くなるという可能性はあるだろう。

我々が使っているギターの弦は、昔はガット、羊の腸で作っていたという。私自身、本物のガット弦はいちども見た事がない。ガット弦時代のギタリストは、それはそれは大変な苦労をしたという。セゴビアがどこかで発言していたが、当時のギタリストは演奏している時間よりも調弦している時間の方が長い!と皮肉を言われていたという。もちろん、ガットはどんどん伸びてピッチが下がるから、絶え間のない調弦を強いられたに違いない。

DSCF1453ナイロン弦は、アンドレス・セゴビアがたまたまデュポン社製の試作品に出会い気に入ったことから始まった。商品化はデュポンではなくギター制作家のAugustineが担当した。今日でもオーガスチンのギター弦のパッケージにはセゴビアの顔写真が使われているのはそういう理由だと推測する。

で、この時、セゴビアをオーガスチンに引き合わせたのがVladimir BobriというGuitar Review誌の編集長だ。

DSCF1441
私が30年ほど前、富士通の社員としてニューヨークに駐在していた時、名前だけであるが、この雑誌の発行元の古典ギター協会?だったかに会費を払って会員登録していた。結局集まりには一度も出席しなかったが、手元に機関紙が残った。

DSCF1439当時も編集長はこのボブリという人だった。彼はイラストレーターでもあったのか?表紙は彼のデザインだった。もちろんギタリストでもあって、当時ためこんだ雑誌に掲載されていた彼の編曲によるグルジアン民謡を題材とした素朴で愛らしいギター二重奏曲を数年前に友人と演奏したことがある。

話はそれたが、ギターの弦は60年前からどれほど進歩したのだろうか?

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2008.01.19

08・01・19 高関健の指揮で東京フィルのブラームス

17日、東京フィルのサントリー定期でブラームスの4番と2番を聴いた。高関健の指揮は確か2-3年前に急遽誰かの代役で登場したのを聴いている。その時にいい指揮者だなぁとジワーッと感心したことは覚えているのだが、どういう風に感心したかは忘れていた。ボケである。

しかしこの日演奏が始まってすぐに思い出した。オケがとってもよく歌う。そして演奏にメリハリがある。さらに身振りが見事に音楽のドラマを体現していて、鳴っている音と一体化しているように見えるので、どんどん演奏が乗って来るのだ。

確か2番の第二楽章では、指揮棒を逆に持って、というとわかりにくいが、スキーのストックのように握ったその手で振り始めたのだが、途中で指揮棒も譜面台の上に置いてしまって手だけの指揮に切り替えていたりする。キザな感じが皆無。

想像するに、オケとの関係は学生時代の音楽部のリーダーと部員たちに近いのではないか。他の部員を引っ張って行く並外れた説得力を持っているのだろう。そういう意味で、指揮台に立っただけでドラマが始まるというタイプではない。近寄りがたいカリスマ性もないだろうな。逆に近寄って雑談したくなるような感じ。マエストロなんて呼ばれるのは好まないかも知れない(真相は知らないが)。

当日のプログラムに指揮者自身からのメッセージが掲載されていて、それによると、今回の演奏は新しく編纂されたブラームス全集に盛り込まれた研究成果を取り入れているとある。4番も2番も指揮台の上にはスコアらしきものが置かれていたが、最後まで表紙は閉じたままだった。あれは研究論文だったのだろうか。

さて、久しぶりに聴いたブラームス。特に2番を注意して聴いていたのだが、ブラームスの肉声はチェロ、ビオラ、そして木管楽器あたりからよく聞こえて来る。バイオリンは時にG線で低く力強く歌うことはあっても、まとまったメッセージはほとんど担当させてもらってない。映画で言えばエキストラ的な存在になっているように感じた。少なくとも第三楽章まではそんな印象が強かった。

DSCF1370プログラムの野本由紀夫氏の詳しい楽曲解説が興味深い。4番の第一楽章の「ため息」のテーマが、よく見ると12音技法寸前まで来ているという指摘。12音のうち11音まで使われているというのだ。

この日、二曲のシンフォニーが終わって大拍手となったわけだが、きっとアンコールがあるだろうと読んだ。はたせるかな、あったことはあったのだが私の予想は裏切られた?

なんと、指揮者とともに楽屋からピッコロをもった元首席フルート奏者を始めとする数名が出てきて一段と大編成にした上でのアンコールだったのだ。こんなの初めて。しかも決して小品とは言えない大学祝典序曲を賑々しくやったのである。

この日のプログラムがブラームス交響曲研究発表会的な演奏会だったとすれば、まことに相応しい選曲だったかも知れない。

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2007.01.25

07・01・23 メシアン「トゥランガリラ交響曲」東京フィル

メシアンの「トゥランガリラ交響曲」。東京フィル定期のこの演目は私が一年前から待ちに待ったもの。日フィル定期に通っている友人まで誘って、サントリーホールに聴きに行った。

休憩無しの80分の演奏に心地よく浸りつつも、なぜこの「現代音楽」がかくも心地よい音楽体験をもたらすのかと考えざるをえなかった。いや、これはおかしな問題提起かも知れないけど、音楽ってMusicであって、Museをamuseするモノでしょ(だよね?)。なのに、世の中amuseとはほど遠い「作品」が多すぎる。その中にあってトゥランガリラだけは突出してamuseしている。これ以前のいかなる音楽作品もなし得なかった類の独特の音楽マジックを実現していると思う。

音楽をひっそりと楽しむ一人の人間として、20世紀の作曲家で誰に御礼を言いたいかと言えば、私はまずメシアンなのだ。

「トゥランガリラ交響曲」は、ほぼ40年前に小沢征爾指揮のレコードで聴いて、はまって以来、さまざまな未知の現代音楽を聴く場合に、この作品を一つの基準として心の中で反芻していたと思う。

今回の演奏を聴いていて、この音楽は「森林浴」ではないかと思いついて、やや落ち着いて来た。それも熱帯雨林の生物多様性に満ち満ちた森林での森林浴。

最終楽章の最後の最後のオケ全奏での長~いフォルテ記号を10個ぐらい重ねたような大音響がある。普通の音楽なら作曲家の肥大化したエゴの咆哮に聞こえたりするものだが、この音楽に限って、全く違うものに聞こえる。長く長く引っ張ると、やれやれいつまで鳴らしてるんだろうと、不自然な間を感じさせる作品もあるものだが、トゥランガリラの最後は、もっといつまでも鳴らしてくれ、という気持ちになるから不思議だ。

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2007.01.18

07・01・18 松尾善雄・作曲「ナジム・アラビー」

2007年度全日本吹奏楽コンクール課題曲5作品のDVDを観ました、いや、聴きました。

音楽教育者でも吹奏楽関係者でもなんでもない、単なる音楽オヤジの感じでは、松尾さんの「ナジム・アラビー」がダントツに面白い! これだけマーチじゃないとの印象だったけど、これは間違いでアラビアン・マーチだそうだが、いずれにしても、次元が違う。

別にこのDVDを松尾さんからいただいたという義理で言っているわけじゃございません。

松尾さんの音楽は紛れもない映画音楽です。それも映画の冒頭で使われる序曲。全編のドラマ展開が暗示される予感に満ちた音楽。

眉毛と睫毛の濃いギョロ目のアラブ人の顔をアップで映す、カメラはパンしてイスラム宮殿の中庭を捉えつつ回廊の細い柱を何本も横切る、等々のシーンが見えるかのようだ。

64小節目で急にピアノになるところ。よくあるパターンだが、賑やかな群衆のシーンから主人公一人の内省的で意味ありげな表情のアップに切り替わる。カメラは静止しないで動いている。遠景がわざとぼやかされている。あるいは、広場の群衆を捉えていたカメラが移動して連続的に部屋の中を人物を捉える時に、急にバックの音楽の音量が下がる感じ。

全体的に謎が謎のまま延々と最後まで引っ張られる印象があり、序曲らしさを醸していると思う。この音楽が終わると、いよいよこの映画の本編が始まり、主人公の最初の科白が発せられるシーンにつながる…に違いない。

こういう音楽こそ演奏のしがいがあるだろうに、この曲は高校生以下の諸君にはコンクールでは禁断の曲となっている。まるで18禁のように、大学・職場・一般人だけに挑戦が許された課題曲なのだ。その理屈がわからないし、音楽教育的観点からも妥当とは思われない。

強いて邪推すると、指導者が楽団員の多感な青少年諸君に曲想を説明する時に指揮台の上で「ここは誘惑の眼差しで腰をクネクネする感じ」と熟女のベリーダンスを演じる事態を恐れたのだろうか?教育現場にナジマネーよアラビーは、って?

だいたい吹奏楽定番のマーチを聴いていて大人の異性のモチーフを感じた記憶がない。怪しい胸騒ぎがない。極論するとマーチは女性が出演しないホモセクシュアルの世界。つまり逆タカラヅカだ。どうも松尾さんの今回の曲はマーチではないにしても、教育的吹奏楽の世界のなんとなくの掟?を破ってしまったのかも知れない。

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2006.12.13

06・12・12 カラオケ with Pinky Winters

DSCF9592シナトラ協会主催?のピンキー・ウィンターズとのカラオケ・パーティ@Again 渋谷・桜丘。常連が20名ほど集まったでしょうか。きさくで楽しいおばさまを囲んでJazzで盛り上がりました。
私が歌ったのは"Some Enchanted Evening", "For The Good Times", "Love is a many splendored thing"、"Once Upon a Time"の四曲。いつもこればかりですが。
DSCF9599アゲインのお客さんはセミプロ級の人ばかり。カラオケは独りよがりだと決めつけている人は、この店を体験するべし。鑑賞にたえる素人歌手がこんなに沢山いることに驚くにちがいない。自分以外の人の歌を聞くのが楽しみで私も通っているのです。

ピンキーは70歳をとうに過ぎても肉体的に元気であり、しかも多くの人々に「余人を持って替え難い」存在として愛されている。ビジネスマンには考えにくい人生だ。しかし色々な経験を経て、それがプラスに活かされて、今の彼女があるに違いない。人生は中長期の事業計画のように計画することはできないのだろうね。計画通りの人生って、それは一体なんのかね。

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2006.12.11

06・12・10 Pinky WintersのMy Melancholy Baby

Pinky Wintersのライブの歌を聴くことができた。CDで知った彼女のイメージは裏切られることがなかった。

DSCF9544この人の歌はとても自然だ。大袈裟な表現がない。余計な力みとか熱唱がない。ボサノバのような脱力系に近いものがある。だけど投げやりではない。当然テンポがルバートするにはするのだけど、不思議なことに印象としてはキッチリ端正なのだ。なのに、しっとりとした味わいがあり心にしみ入って来る。

出色はMy Melanchloy Babyだ。CDでは"Rain Sometimes"というアルバムに収録されている。この日も予め出してあった私のリクエストで歌ってもらった。

この歌は題名のとおりメランコリーになっている愛しい人を抱き寄せて、どうした元気だせよ、私が何か気に障ることを言ったかい?といった恋人同士の会話という設定になっている。もっともメランコリーな相手は黙ったままだが。

ところが、これをピンキーがバラード風に歌うと、聴き手の心の中の元気な自分がメランコリーな自分を励ます内面の対話に聞こえるのである。彼女の歌声にモノローグの趣が強く感じられるからだろうと思う。

だからなのか、"Every cloud must have a silver lining"という部分を聴くとまさに雲の輪郭を明るく縁取る光が目に浮かび、雲の背後に希望という太陽が輝いている様子がとてもリアルに伝わって来る。Matt Dennisの歌だと全くこの印象がない。

村尾陸男さんのジャズ詩大全14での解説から想像するに、バディ・リッチ、ディーン・マーティン、ペリー・コモあたりは似たような歌い方をしているのかも知れないが聞いたことがない。今のところ私にはこの曲は彼女の歌でしか考えられない。

DSCF958112月9日土曜の午後、冷たい雨に煙る天王洲アイルのヨットクラブで開かれたとあるパーティで70代後半だとも聞く彼女のスムースな歌声に聞き入ったのだった。

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