2008.09.24

08・09・23 DVDで「笛吹童子」を確かめる

1954年(昭和29年)4月~5月に公開された東映の「笛吹童子」(145分)をとうとうDVDで観ることができた。朝から夕方まで、「紅孔雀Ⅰ」(166分)「紅孔雀Ⅱ」(106分)と合わせて延々417分間、スクリーンの前に座っていた。

DSCF3405当時、映画館でこれを観たのかどうか?たぶんテレビでだったと思うのだ。今日の常識では考えにくいが、テレビの受像機台数がまだ少なかったあの頃、映画のヒット作品をテレビで放映したって映画館が損害を被ることはなかったはずだ。したがって新作映画の放映料もたかが知れていたはずだ…と推論できる。やはり、私は自宅のテレビで観たのではないかと…これも推論だが。放映されたのはもっと後の話だったぞ、と言われればそうかも知れないとも思う。

余談だが、昭和29年頃のこと、日本テレビの生放送ドラマ「西遊記」という番組宛に母が私の名前でファンレターを出したら、なんと、葉書で返事が来て「スタジオに見学に来ませんか」と書いてある。長谷川さんという人からだった。もちろん親子で麹町まで出かけたものだった。それほどテレビというメディアがマイナーな時代だったのだ。

DSCF3408「笛吹童子」は、福田蘭童・作曲の主題歌はもちろんよく覚えている。中村錦之助、東千代之介、高千穂ひづる、大友柳太朗、月形龍之介の姿や声も記憶にある。原作者が北村寿夫だったことも、そうそうと思い出せた。

しかしストーリィが思い出せない。これが三部作だったということもDVDを買って初めて気付いたほどだ。「どくろの旗」「妖術の闘争」「満月城の凱歌」とある。そもそも「笛吹童子」「紅孔雀」「七つの誓い」が「新諸国物語」というシリーズを構成していたこともわかっていなかった。それどころか1956年12月~1957年1月公開の「七つの誓い」は題名すら記憶にない。

作品として鑑賞するというよりは、わが幼い子供心を揺さぶった「笛吹童子」は一体何だったのか知りたい、という気持ちで観ていたが、そういうことだったのか…と制作者である当時の大人たちの意図を感じるところがあった。

少しの時間差で戦後生まれとなった私にはわからないことだが、昭和29年、人々はまだ戦争の記憶が生々しかっただろう。当時住んでいた大森から池上にかけての辺りでは空襲で破壊された工場や学校の瓦礫がまだ残っていた。外地から引き揚げて来た人も多かった。我が家も上海からの引揚者である。ラジオでは常に「尋ね人」の放送があった。離ればなれになった家族を探す人が珍しくなかったのだ。過去を引きずりつつも新しい時代を自由に生きるアプレゲールも現れていた。

「笛吹童子」では時代を応仁の乱の直後に設定している。丹羽一族の「満月城」は野蛮な野武士・赤柿玄蕃に乗っ取られるが、城主の正統性の証である「白鳥の玉」は渡していない。城主の遺児となった萩丸(東千代之介)と菊丸(中村錦之助)は留学先の明の国から戻り城の奪還を誓うが、萩丸は満月城に戻り武術で、菊丸は京に残り笛と面という芸術の力で敵に立ち向かう。大江山に住み妖術を使う霧の小次郎(大友柳太朗)は既成秩序のしがらみから外れて自由奔放に酒浸りの日々を送るが、生き別れた妹の胡蝶尼(高千穂ひづる)を探し求めている。このような設定の中で、萩丸と菊丸の兄弟が再会し、霧の小次郎と胡蝶尼の兄妹も再会するのである。

戦後間もない日本の多くの家族が経験したプライベートなドラマがこの映画に投影されていると見ることができる。もちろん「満月城」は敗戦し占領された日本であり、それを若者の文武両面の活躍によって奪回するのだ。霧の小次郎はアプレゲールだろう。この作品はこうした暗喩に満ちており、それを通じて、戦争で傷ついた日本人を励まそうという心が伝わって来る。単なる娯楽映画ではない。

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2008.09.18

08・09・18 ヘビの脱け殻

で、十里木で青いマムシグサを見た翌週、近くの御殿場で今度はヘビの脱け殻に出会った。現物を見るのは初めてだ。人類はヘビに対して根源的な恐怖心を植え付けられていると思うのだが、脱け殻は妙に間抜けな姿を晒しているようでまったく怖くない。DSCF3335

生身のヘビを目の前にすると、すくんでしまって何も言えずに黙り込んでしまうのだろうが、脱け殻になっちゃったら、あんなこわい蛇についてだって、あーだこーだ好き勝手な論評をするだろう。

ヘビってのは、草むらに身を潜めつつ、自分の脱け殻が人間によってどんな扱いを受けるのか、観察しているのかも知れないな。

それにしても、この透明でプラスティック風の精密な構造体は、Speedo社のLaserRacerではないが、ハイテクのスポーツウェアを思わせる。いかにもみごとに脱ぎ捨てられていて、ついさっきまで、この殻が生命体の皮膚そのものだったとはとても信じられない。

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2008.08.17

08・08・17 ららぽーと横浜

DSCF314515日のゴルフの帰りにららぽーと横浜に寄った。私にとっては夏休みだったが、平日、金曜の夕方の時間帯に、大変な人出である。ガソリン高騰で遠出を嫌い近場で済ませているのだろうか。もともと近くにショッピングが楽しめる大型の施設が少なかったことは確かだろう。眠れるニーズを見事に掘り起こしたように見える。

この場所は以前は工場だった。面白いことにGoogleマップの航空写真はまだ工場時代のまま。しかしストリートヴューは「ららぽーと」に変わっている。

DSCF31483階建ての、とにかくでかいモールだ。両端にデパートのような大型店を配して、それを結ぶプロムナードに沿って無数のブランドショップが並んでいる。こういうフロア構成は30年前にニューヨーク郊外のパラマス・パークで見たのと設計思想は同じだ。当時、わざわざ日本からパラマス・パークを見学に来る流通関係者は多く、駐在員として案内したこともあったような記憶がある。

あれが今、横浜にこうして見事にコピーされて現出して、しかも賑わっている。

3階のシネコンを覗いてみた。ホールの中に入るとたちまちポップコーンの香りが流れて来た。ああ、これもアメリカの臭いなんだな。ちょっと小津映画なんかを上映するのには向かない場所かなと感じた。

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2008.08.03

08・08・03 赤塚不二夫、逝く

DSCF8650一昨年の夏、スペインのプラド美術館でピカソ展を観た。その時、ひときわ感銘を受けたのが、ピカソがキュービズムに入って行く頃に自らの方法論の可能性を吟味していたと思われる数々の模写だった。同じ美術館に展示されている名画をキュービズムで捕捉する作業だ。中でもベラスケスの可愛らしいマリガリータ王女の「模写」が印象的だった。元の絵はこんな感じだが、この絵そのものだったかはわからない。

ピカソの手にかかると、模写といいながら、これが赤塚不二夫になっちゃうのだ!とその時感じた。あいにく模写のイメージデータはちょっとGoogle検索した限りでは見つからない。が、とにかく最も近いのは「漫画」なのだ。

漫画として私たちが知っている絵の技法は、対象を大胆に省略することを強いるから、どうしても描き手が対象をどう捉えたのか、という結果が露骨に表れる。これは批評そのものである。

ピカソの模写には、対象を分析して評価し、批評的に、そして立体的に、再構築するという方法論があるように感じられる。

赤塚の描くキャラクターも人間批評になっている。鋭くも愛情に満ちた人間観察から生まれる批評である。キュービズムも自在に取り入れていた。

私は赤塚以外の漫画家にはあまり興味を持つことができなかったが、批評としての漫画(というより人物の絵そのもの)という基準で見ると、その理由がわかる気がするのだ。

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2008.07.13

08・07・13 アジロンや、つはものどもが夢のあと

「ADIRONDACK(アディロンダック)」。忘れられない言葉である。ある資料にタイプされていたその書体までイメージが残っている。

先月、勝沼のレストラン「風」のワイン・リストの中に見つけた「アジロン」。原始的エネルギーを感じさせるラベルだが、インディアンの部族名だからこの絵なのか?と、そういえば2年前にも同じことを考えたことを思い出した。
DSCF2839

ADIRONDACKは、ちょうど30年前、富士通のニューヨーク駐在員であった私にとっては、IBMが開発中の戦略的メインフレーム・シリーズのコードネームとして日常的に見聞きする名前だった。

PCM(プラグ・コンパチブル・メインフレーム)をもって追い上げて来た日本のコンピュータ・メーカを一気に蹴落とそうと、IBMは、大幅に価格性能比を向上させた複数の機種を投入する計画を進めていたのだ。

ADIRONDACKは、その開発部隊の拠点からさほど遠くないところにあるニューヨーク州の山岳地帯の地名でもあった。個々の機種にはLOOKOUT=見晴台とか、それらしい名称が付けられていたものだ。

富士通としては、PCM路線を維持するために、ADIRONDACKのハードとソフトの基本的なアーキテクチャに大いに関心があったし、そもそもPCMの参入の余地を作った高い価格設定による「プライス・アンブレラ(傘)」がどこまで下がって来るのかも心配だった。そうしたIBMの具体的な戦術に関する(今流行りの)インテリジェンス活動をすることが私(一人ではなかったが)の使命だった。

IBMの作戦は多面的であり、単に衝撃的な新機種を繰り出すだけではなく、PCM陣営、特に富士通のインテリジェンス活動についても手の込んだFBIの囮捜査を仕掛けるなど、断固たる対決姿勢があった…と、後になって思ったものだ。

当時は「IBM情報」が一つの小さな産業を成しており、無数のコンサルタントが情報を売り歩いていた…ように見えた。しかしこれも後から冷静に考えると、IBM情報を収集する我々に対して、無数のコンサルタントを仕立てて前後左右からアプローチさせていたのかも知れない。

その中の何社かは、クライアント毎に異なるコードネームを教えておき、じつは、それが業界に広まる伝播プロセスをトレースしていたということを、後年、当事者の一人から聞かされたことがある。まさに一網打尽にするための手を打っていた。彼ら自身も、ある時点まではIBMの企業秘密を流していた事情もあり、その罪を赦してもらうために、IBMやFBIと取引をして捜査に協力していたのかも知れない。真相はわからないが。

我々もあちこちから聞こえて来る情報を徹底的に分析整理して、本来の情報源とそれをエコーしているだけの情報リピーターとを峻別していた。業界付き合いの席で話題にする場合でも、敢えて一般に流通している情報の範囲に留め、真の情報源から得たネタは決して教えなかった。

幸か不幸か、我々の「インテリジェンス活動」は精緻な部分とそうでない部分とが絶妙にない交ぜになっていた。囮捜査側からすれば、この上ない美味しいエサになぜ食いついて来ないのか?と思ったに違いない。今にして思うと「品格」のなせる業だったのではあるまいか。

「原茂アジロン」というメニューを広げて、一瞬のことだが、こんな記憶がよみがえり脳裏を駆け巡ったのだった。

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2008.04.23

08・04・23 深夜の交通事故現場

Car Accident
タクシーで帰宅途中、いつも走り慣れた道が警官たちでブロックされていた。

ゆるく左にカーヴする道だが、どうやらこのトラックは真っ直ぐ突っ込んだようだ。

大きな地図で見る

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2008.04.21

08・04・21 たまにはネガティヴ

ワインを飲みながらNHKの首都圏ニュースを観ていたら、東京ディズニーランドで「賞味期限」切れの幼児用食品を何件か販売してしまったという報道だ。「消費」ではなく「賞味」期限であるから、食品が傷んでいたわけではないし、具体的な被害者が出たわけでもないようだった。TDLからの発表を踏まえてのことだろうが、これが本当に「ニュース」かい?今、皆が知るべきことなのか?

今日の私は別に機嫌が悪いわけではない。血圧だって正常だ。しかし、メディア諸君(ったって、この場合はNHKだけだが)、ちょっと待ってくれよと言いたくなった。

そりゃ、もしかたらTDLのサービス品質の神話時代は終わったのかも知れない。パレードの山車が崩れたというニュースの記憶はまだ新しい。しかし、だ。賞味期限切れを取り上げるのなら、賞味期限切れ商品を定期的に平然とばらまいている業界が身近にあることを御存知ないのか、NHKさんよ、と言いたい。

それは新聞である。宅配の英字新聞である。

私はヘラルド・トリビューン紙(以下、ヘラトリ)を宅配で購読している。この新聞は私の記憶では休刊日はクリスマスぐらいしかない。少なくとも、嵐が吹こうと、阪神が優勝しようと、フセインが逮捕されようとも、日本の新聞業界が頑なに墨守している年に何回もの定期的な休刊日はヘラトリには無いと言ってよい。

日本の新聞の休刊日には日本の新聞は宅配されない。そりゃ、配達しようにもそもそも大元の新聞が制作されず印刷もされないのだから、仕方がない。(正確な理屈は、配達してくれないから制作しない、かも知れないが)

この同じ休刊日に、英字のヘラトリは制作されているのである。新聞はできているのだ。その証拠に駅売りはあるのだ。が、我が家に朝それが配達されたことはこれまで一度もない。私はヘラトリの購読者であるにもかかわらず、それとは関係のない日本の新聞の休刊日になると、側杖を食らってしまうのだ。

ふだん私は、朝、出勤する時に、門の郵便受けから新聞を取り出してカバンに突っ込んで出かけて行くのだが、日本の新聞の休刊日の朝、ヘラトリは届いていない。ないものは仕方ないからカバンは虚しく家を後にするしかない。

夜、帰宅すると、賞味期限切れのヘラトリが郵便受けの中でアクビをして私を待っているのである。

誰が何時頃にこの腐りかけたニュースという商品を平然と配達しているのか。その姿を想像するだにバカバカしくて私は問い合わせをしたこともないし、突きとめようとしたことも一度もない。購読開始時にそういう予告を受けた記憶もないし、毎月集金に来る新聞販売店の人から謝罪された記憶もない。この業界の人はこれがまったく当然だと思っているらしいと察するばかりである。遅れて配達される新聞は賞味期限切れだが、そんな時間に配達に来る新聞屋の職業倫理は消費期限切れと言わざるを得ない。

休刊日にも発行される新聞の宅配をどうするか、恐らく新聞販売店によって対応は色々だろうと想像している。それでも「被害者」が数人にとどまる筈はないだろう。全国で数千、いや数万人にのぼるかも知れない。

新聞ジャーナリズムはこれを問題として取り上げることはないだろうが、NHKならできるだろう。(と私に言われたら新聞人諸君は侮辱だと思ってほしいのだが…)

たまたま、さっきアマゾンから届いたので読み始めたのが我が敬愛する元毎日新聞記者・徳岡孝夫氏の「『民主主義』を疑え!」である。帯には「新聞、テレビはなぜ堕落したか?」と書いてある。「現場」へ行け、「マス・メディア」を疑え、「事実」から目を背けるな、「人は何のために生きるか」、常に考えよ、とも書いてある。

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2008.01.16

08・01・16 佐伯泰英の作品だった「新アルハンブラ物語」

DSCF13602年前のスペイン旅行の時に参考にした「新アルハンブラ物語」の表紙を何気なく見ていて、ハッと驚いた。著者名に「佐伯泰英」とあるではないか。正確には安引宏との共著であるが。もっとあからさまに言ってしまうと、本文の大部分は安引氏が書いている。佐伯氏は写真のキャプション的な極めて短い解説文だけしか書いていない。なのに共著者としてどうどうと名前が出ているのは、もしかたら写真も佐伯氏のものかもしれない。この本にはなぜか写真のクレジットがない。

この人は昨年のNHK木曜時代劇「陽炎の辻 居眠り磐音 江戸双紙」の作者としてハッキリと記憶している。私が久々に、おそらく何十年振りに、放送日をワクワクして待ったテレビ番組だった。そもそも日頃ドラマをあまり観ない。まして時代劇はほとんど観ない。たまたま義母に付き合って見始めたら、なんと、私の方がはまってしまったのだった。

山本耕史をはじめとする出演者も魅力的だったが、結局、作品としての出来がよかったのだ。無駄なカットを見せられた記憶がない。芝居をしないで音楽で心理描写を代替するという誤魔化し演出はほとんどなかった。ちゃんと映像で勝負していた。音楽の使い方にも節度があった。新妻聖子の主題歌もよかった(CD買った)。そういう格調高い額縁の中で役者たちの演技が素晴らしいご馳走に見えた。一人一人の人物がこんなにいとおしく感じられた作品は記憶にない。

時代の経済的背景を押さえたストーリィの中で、社会の階層を上から下まで、権力者から庶民まで、目配りよく描いていた。もちろん剣の達人としての坂崎磐音の描き方はリアリズムではない。しかしそんな馬鹿な、という気分には決してさせないところが不思議。うまい。よく泣かされたものだった。

原作も買って読んだ。ただスイスイ読めて切りがないので数冊でやめておいたが。

佐伯泰英氏が時代劇作家として成功するまでには長い苦労の時代があったとどこかで読んだ。Amazonでこの作家の作品リストを出版年月日順に表示してみると全部で173件あり、「新アルハンブラ物語」はその158番目に来る。まだ時代劇を書く前の作品の一つである。

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2008.01.06

08・01・06 買ったら製造中止になったソニーのリアプロ

別に愚痴ではない。11月に買った時に予想はついていた。が、意外に早く、先日製造中止のニュースが出ていた。ソニーのリアープロジェクション・テレビBRAVIA KDS-60A2500である。

DSCF1299年末年始、久しぶりに落ち着いてテレビを観た。レコ大も紅白も全部ではないが珍しく観た。のだめカンタービレは面白いしよく出来ているのでいたく感心した。

観たと言っても60インチの高精細画像を堪能したと言った方が正確かもしれない。確かにきれいだしリアルだ。これはスクリーンであって、もはや子供の頃から知っている「テレビ」とは別物だ。ホームシアターという言葉を実感できる。

買ってしまったのだから認知的不協和の偏見を免れ得ないし、冷静になったとしてもルー大柴的な後のフェスティバルになるのだが、Wikipediaにリアプロの長所と短所が整理されているので、ひとつひとつコメントしてみよう。

《長所 》
●大画面TVとしては、安価かつ軽量
価格はもちろん意識した。50インチあたりだとそろそろ液晶に追いつかれるかもという不安?があったので60インチにしたのだった。
●3色混合表示による自然、かつ奥行き感のある色表現
DSCF1300こちらは正直なところぼんやりと眺めていて気づくかどうかは怪しいが、画面にいくら目を近づけても三原色の各色毎の画素らしき粒は、見えない。まるで銀塩写真を虫眼鏡で見たような感じである。ふだんそんなことはやらないが。一つの画素の中に三原色が溶融するのがSXRD方式のこれぞ技術的に正しいぞ、という魅力である。
店で説明を受けた時に強調されたのは黒が真正の黒だということ。黒とは光が存在しないこと。リアプロの黒は本当にその部分に光が届いていないから黒に見えているのだ。バックライトの光が漏れて来る液晶とは根本的に異なる。
●応答速度が速い(ソニーSXRD搭載モデル2.5ms以下)
液晶でもこの問題はずいぶん改善したと聞いていたが、SXRDが優れていることは確実。
●高コントラスト(SXRD、D-ILA共にデバイスコントラスト5000:1以上、セットコントラスト10000:1)
これは上に書いた黒の表現能力に関係することだと思う。
●省電力
これは決定的なポイントだと考えていた。リアプロは60インチでも50インチでも215ワット。液晶は、例えばAQUOSの65インチは500W、57インチでも390W。
●ランプ交換による輝度回復可(ユーザー交換可)
「輝度回復可」というのは物は言いようという感じだが、確かにその通りだ。
●高精細化が可能
フルハイビジョンだから現在の製品を買ったとも言える。

《短所》
●スクリーンに直射光の当たるような場所で使うには明度が低い
そんな場所に設置するつもりはもともとナシ。
●視野角が狭い(縦方向)
あるていど事実だが展示製品を見た時に特に気になるほどではなかった。それに、大型画面での視聴は、テレビといえども、座る場所を決めて腰を落ち着けて「鑑賞」する気分に近い。きれいに見える場所で見ればよいだけの話。
●適正視聴距離以下での4隅の明度ムラ
これも上と同じ。
●ランプの寿命が従来のテレビと比較して短い(ランプ購入コストが別途必要。1個あたり1万5000~2万5000円程度)
8000時間と聞いた。平均1日4時間として2000日。約5年半である。ちょっと短いかなと思う。しかし致命的欠陥ではない。むしろ長所として書かれていた「輝度回復」という面もあるので、長持ちしても劣化する一方の装置よりはいいのかも知れない。
●奥行きがPDP、液晶に比べて大きい
設置環境次第。ソニーのリアプロは約50センチだが、我が家ではたまたま問題にならなかった。
●画面表面に軟質素材を使用したモデルが多いため物理的な衝撃で傷が付きやすい
気をつけよう。
●視野角が広く、明度ムラを出さず、且つ光源のポテンシャル(高コントラストや高解像度等)を十分に引き出す透過型のスクリーンがない
現在の製品を買ってしまった私には関係ない。開発側が今後悩むことだ。

こうして細かく検証してみると、けっこういい選択をしたような気がする。(←これが社会学の世界で昔から有名な認知的不協和の理論です)

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08・01・06 台北で漢字鑑賞旅行

DSCF2700昨年11月の連休に台北に行き「中文字譜」という漢英字源字典を買ってきた。ゴルフをやりに行ったのだが…。

台北の街に溢れる漢字がいたく新鮮に感じられたのだった。店の看板をジッと眺め、一つ一つの文字の日本での意味をもとに要するにこの店は何だと推論する。で、店の様子を観察して納得したりしなかったりする。漢字の姿形を珍しいもののように観察したのはたぶん幼稚園時代以来のことではないか?わからんが。

DSCF2681日本とは微妙に違う意味で使われている文字も多いし、英語の発音表記に当てる漢字にも意表を突かれる。淡水の名門ゴルフ場は「台灣高爾夫球場」と書く。どうしても野球場のイメージが重なってしまう。コニカの店舗の看板を眺めるとデジタルが「数位」らしいと想像がつく。サービスは「服務」で、なんだかいやいや提供する雰囲気がある。行きの飛行機内で観た映画ムーン・リバーは余りにもそのまんまの「月河」だった。

DSCF1333漢字マッサージで揉みほぐされた脳ミソは、最終日、飛行機の時間を気にしながら台北駅近くを歩いていた。たまたま古本屋の前を通り掛かった。入ろうか?中国語読めないから無駄じゃないか?でも見るだけ見たら?二度と来ないかも知れないのだから。自問自答のすえ入る。入口近くが辞書の棚だった。あまりゆっくりしていられない。買うならサッサと買えよ、という気持ちで背表紙をサーチ。目に飛び込んで来たのが「中文字譜 漢英字源字典」だった。"Chinese Characters, A Genealogy and Dictionary"という英語に安心感があった。

値段は400元だから約1600円。両替した元を使い残しても無駄だという気もあった。レジで金を払おうとしたら350元だという、というか、お釣りをくれたのだ。前日、土産物屋でカラスミを定価で買って来たら、同行者たちに、台北で値切らないのはアホだと馬鹿にされたのだが、そのことを思い出す前に店の方から値引いて来たのには驚いた。

帰路の飛行機の中でこの字典をパラパラと捲り始めた。自分の名前の「章」は?とみると、これは「音」と「十」の組み合わせだという。音(Music/sound)が十(completed)=完了する、だから楽章の意味になるとある。初めて聴く説明に驚いた。自分では特に根拠もなく「立」と「早」の組み合わせだとばかり思っていた。「鎌」はどうだ?と索引を探すがこれが見当たらない。何故だ?約3時間の飛行時間の大半をこの字典で遊んでいた。

この字典の著者はRick Harbaugh という今は米国インディアナ大学にいる経済学者である。国立台湾大学(National Taiwan University)で修士論文に取り組んでいる時に、退却神経症ではないだろうが、本来の研究からの"distraction"として1998年にできちゃったモノと断っているが、できが良すぎる。論文の方の出来か心配になるほどだ。しかも、印刷物以上に充実したネットサイトが今も維持されている。

さて、日本人なら漢字のことは白川静先生に最終的な結論を聞くべきだ。私の「章」はどうなんだと字統(普及版)を引いてみると流石である。白川説によると、後漢の許慎による「説文解字」に「章」=「音」+「十」で楽章だという説が書かれているが、当時、「章」に楽章の意味があったことから逆に発想して、そのような解釈が成立するように字形の解釈をするという過ちを犯したものと断じている。Harbaugh教授の字典は「説文解字」をそのまま引用しているだけだということがわかった。

そういえば「中文字譜」の前書きにはちゃんと「説文解字」準拠であるため、それ以前の時代の漢字の形である甲骨文などの情報は使っていないとの断り書きがある。

とはいえ「説文解字」は「字形学的な字書として唯一のものであり、その聖典とされる」と白川先生は書いているし、Harbaugh教授も西暦100年頃に成立したこの字書が"one of China's first and still most influential dictionaries"だとしている。この「中文字譜」は「説文解字」の世界に手軽に親しむのに絶好の字書だと思う。案外、日本には類書がありそうでないのかも知れない。

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